大津城 (おおつじょう) (高縄城)
所在地 愛知県豊橋市老津町西高縄78 2014.12.8
大津城 (おおつじょう) (高縄城)
所在地 愛知県豊橋市老津町西高縄78 2014.12.8
高縄城址標柱
高縄城址標柱
学校西側・土塁・曲輪
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道411号線に面した家政高等専修学校(表記番地)の正門南に「高縄城跡」の標柱が建てられている[マップコード311 385 381*18] (地図)。
西から南にかけて曲輪、土塁が残り、畑となっている。
【歴史】 文明七年(1475年)、松平信光の娘婿で三河国碧海郡上野に拠点を置いていた戸田宗光が知多郡河和経由で東三河の渥美郡に進出し、大津城 (高縄城)に入ったが、 文明十二年(1480年)渥美郡代の一色七郎が没し、戸田宗光は田原城を築き、大津城より移った。
明応八年(1499年)、宗光は渥美郡支配を強めるために、同郡の北端に新築した二連木城(同県豊橋市仁連木町)へ移り住み、子の戸田憲光に田原城主を譲った。大津城の役割は一時、低下する。
その後、永正二年(1505年)、吉田川の西岸から牧野氏が渥美郡に進出し、牧野古白が今橋城(吉田城)を築いて戸田氏に対抗した。
戸田氏と牧野氏の覇権争いの決着を見ずに、宗光は永正五年(1508年)没するが、戸田氏は今橋城への対抗上、田原城と二連木城の連携に欠かせない城として、大津城は再び重要視された。
この後たびたび吉田、田原で戦が起こり、大津城は吉田城と田原城のほぼ中間点に当たる城であったため重要視され拠点として使われたとされる。
江戸時代、慶長二十年(1615年)の一国一城令により廃城となった。