明智城 (あけちじょう) (長山城)
最寄地 岐阜県可児市羽生ヶ丘5丁目 2014.11.23
明智城 (あけちじょう) (長山城)
最寄地 岐阜県可児市羽生ヶ丘5丁目 2014.11.23
登城ルート(緑線は車道)
大手門
二の丸跡
本丸跡
由来碑
明智城址碑
七ツ塚
馬防柵
展望台
明智城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 羽生ヶ丘団地の北側の道を登ると、駐車場がある[マップコード70 325 137*77 ](地図)。
西に「二の丸曲輪」があり南に「馬防柵」が建てられた馬場があり、弘治二年斎藤義龍軍に攻められ戦死した七武将を葬ったと云われる「七ツ塚」がある。
西側に地続きに本丸があり本丸跡の碑や「明智城址」の石碑、「明智城」碑文、案内板が建てられ、展望台が設けられている。展望台からは可児市街や遠く御嶽山の噴煙が望めた。2014年9月27日に50数名の登山客の命を奪い去った噴火である(黙祷)。
その西に「西出丸曲輪」があり、現在その地下に可児市上水道貯水池となっている。また北方に「水の手曲輪」・「西大手曲輪」があるが、倒木のため通行禁止となっている。
駐車場より北東に大手道を300m程下って行くと、大手門(冠木門)が復元されている。大手道は石畳となり、その東に「東出丸曲輪」、西に「中ノ曲輪」がある。
可児市指定史跡(長山城趾)となっている。また明智城址公園散策路として整備され、ハイキングコースとなっている。
【歴史】 土岐明智二郎下野守頼兼が、康永元年(1342年)美濃国可児郡明智庄長山に土岐より明智と改名し明智城を築城したといわれる。
弘治二年(1556年)九月十九日、稲葉山城主斎藤義龍(高政:道三の庶長子)の攻撃を受け、明智城代明智光安(宗宿)は弟光久と一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870余人を集めて籠城した。
しかし義龍軍は3700余の軍勢で2日間攻め、光安は光秀(十兵衛)に明智家再興を託し弟光久と自刃し、妻妾も落城前に自刃したと云われる。
一説ではこの時に、道三の死後政略結婚の意味がなくなったとして信長によって、母方の実家で叔父である光安の明智城に返された32歳の濃姫も、明智一族と運命を共にしたとの推察がある。
明智一族が滅んだため墓所も口伝も残っていないとされる。なお、落城のときに光秀は明智城から逃れたと『明智軍記』にはあるが、主な史料は『明智軍記』しかなく、光秀の在城を現在歴史的に証明したものはない。
落城後は廃城となり再興されることもなかった。