砕導山城 (さいちやまじょう)
最寄地 福井県大飯郡高浜町宮崎59-4 2017.9.9
砕導山城 (さいちやまじょう)
最寄地 福井県大飯郡高浜町宮崎59-4 2017.9.9
登城ルート
佐伎治神社
妙見山遊歩道入口
御滝への道
土橋・堀切
畝状竪堀
北側の腰郭
東側下段の郭
東側中段の郭
主郭
砕導山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【感想】 妙見山より東に伸びた標高117mの尾根頂上にあり、高浜城の南約1.6kmに位置している。土橋のある堀切、畝状竪堀がよく残っている。
【案内】 国道27号線「宮崎」交差点より小浜線を渡って南に行くと佐伎治神社(表記番地)があり、駐車場がある[マップコード240 521 797*64](地図)。
佐伎治神社西に妙見神社への石段があり、九十九折の参道を登ってゆく。途中忠霊塔のある平坦地に出る。
更に100mほど登ると、愛宕神社入口の反対側(左)に「御滝への道」の標識のある降り口があり、100m余行くと土橋・堀切があり、その左側に畝状竪堀が残っている。
その先に腰郭があり、急斜面の主郭下を東側に回り込むと平坦地がある。東側から登ると、中段の郭を経て、最高所に主郭がある。
【歴史】 築城年代は定かではないが、逸見駿河守昌経により築かれたと云われる。
逸見氏は若狭国守護武田氏の支族で逸見党と呼ばれた有力家臣であったが、永正十四年(1517年),天文七年(1538年),永禄四年(1561年)主家武田氏に反乱を起こしている。
逸見昌経は永禄四年(1561年)若狭国守護武田氏の内紛に乗じ叛乱を起こしたが、同年六月越前朝倉氏・武田氏連合軍との戦いに敗れ、砕導山城は落城した。
巻き返しを図る昌経は、永禄八年(1565年)高浜城を築いた。元亀元年(1570年)織田信長が朝倉攻めの進軍をすると、その被官となり、越前侵攻に転戦した。