松ヶ島城 (まつがしまじょう)
最寄地 三重県松阪市松ヶ島町591 2016.4.23
松ヶ島城 (まつがしまじょう)
最寄地 三重県松阪市松ヶ島町591 2016.4.23
案内板
天守山西側・城跡碑
東側・説明板
天守山
松ヶ島城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道23号線「南勢バイパス」の「松ヶ島町」交差点より東に約400m行くと、「松ヶ島城跡」案内板が建てられている[マップコード80 379 034*74]。
この付近に路駐し徒歩が良い。表記番地の右の細い道を約120m行くと左にビニルハウスが見えて来る。
その東に天守山と呼ばれる高さ3、4mの台地があり、西側に「松ヶ島城跡」石碑、東側に説明板が建てられている。
昭和三十一年(1956年)12月3日、三重県の史跡に指定された。
【歴史】 松ヶ島はかって、保曽久美(細汲、細首とも書く)といい、伊勢神宮への参宮古道沿いにあって伊勢湾に面した三渡川河口を控え、海陸の要衝にあった。
天正八年(1580年)その後、織田信雄(のぶかつ・信長の二男)は南伊勢統治の居城として、田丸城からこの地に移し、松ヶ島城と称し、五層の天守が聳えていたという。
その後、家臣・津川義冬、滝川雄利(かつとし)が城主となり、天正十二年(1584年)には豊臣秀吉の部将・蒲生氏郷が12万石の大名として入城した。
天正十六年(1588年)に四五百森(よいほのもり)に松坂城を築いて城下町に、同年十一月末日付で本城下の社寺や町人をすべて強制移住させた為、松ヶ島城はもとの一漁村に変容した。
参宮古道も松坂経由に変更され、松ヶ島城と城下町は廃された。
発掘では瓦片や茶碗片が出土している。古図や検地帳には、天守跡、城之内、丸之内、城の内、南之内、日の丸など城郭に関する地名や、殿町、本町、西町、紙屋町、ほうく町、鍛冶町という町名が見え、往時の繁栄を忍ばせる。
287㎡の指定地は俗に天守山と呼ばれ、付近から金箔をおした古瓦片などが出土しており、本丸天守の跡と考えられる。『松阪市教育委員会説明板』より。