緒川城 (おがわじょう)
最寄地 愛知県知多郡東浦町緒川重右山33−1 2014.12.11
緒川城 (おがわじょう)
最寄地 愛知県知多郡東浦町緒川重右山33−1 2014.12.11
古城公園
土塁・城址碑・説明板
乾坤院総門(移築門)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 東浦町役場(東浦町緒川政所20)に駐車し[マップコード17 491 759*87]、「東浦町学校給食センター」(表記番地)東の通りを北に約160m行き右折、東に85m行き右折南に行くと間もなく「古城児童遊園」がある(地図)。
松平広忠の正室「於大生誕の碑」の石碑が建てられ、その背後に土塁があり、「緒川城址」の石碑、城趾全体の縄張り図を含む由来説明板が建てられている。
それによると土塁・堀を巡らせた主郭は東西83m南北95mの方形で北に二つの家臣の屋敷曲輪があり、最北の曲輪は分長の時代に居城とされ「高薮城」と呼ばれた。
乾坤院(東浦町緒川沙弥田4)の総門は、寛永七~八年(1630~31年)に建てられ、城門を移築したとされる。東浦町指定史跡となっている。
【歴史】 文明年間(1469~87年)に水野貞守により築城された。
のち賢正、清忠、忠政(子に近守・信元・信近・忠守・近信・忠勝・藤助・忠分・忠重・於大他娘四人)、信元と続いた。
天文二年(1533年)、忠政は三河国刈屋に新城(刈谷城)を築いた。天正八年(1580年)の水野忠守の入城に際し、居所の移転がなされる。
慶長六年(1601年)に緒川藩が成立、水野分長(忠分の長男)が城主となった。
慶長十一年(1606年)最後の緒川城主水野分長が三河国新城藩1万石に移封され、廃城となった。