井伊谷城 (いいのやじょう)
最寄地 静岡県浜松市北区引佐町横尾197 2016.3.20
井伊谷城 (いいのやじょう)
最寄地 静岡県浜松市北区引佐町横尾197 2016.3.20
虎口・帯郭
主郭・御所丸
城跡標柱・説明板
説明板
御所丸跡碑
南側土塁
井伊谷城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 国道257号線より西に登った「八柱神社」(表記番地)の南に入口があり、通行止め標識の前に駐車できる[マップコード26 605 171*34]。
南に登ってゆくと、虎口の先に広い平坦地があり、説明板、城跡標柱が建てられている。主郭は城山公園となっており、展望台が設けられている。
東の最高所に「御所丸跡」の標柱、「井の宮石陵」の標柱が建てられ、搦手門等がある。虎口付近に帯郭、南に少し土塁がある。また「井伊直虎ゆかりの地」の幟がある
また東の山麓には宗良親王を祀る二宮神社(引佐町井伊谷306)、親王の御念持仏を祀る足切観音堂がある。
【歴史】 井伊城は、城山の南麓にあり、本丸、二の丸、三の丸に分かれ井伊家の居城であった。
延元元年(1336年)遠江介井伊直政が後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王を奉じ、元中二年(1385年)八月十日宗良親王が、この地で薨去し給うまで約50年間、親王は京都と鎌倉の中間点である、この井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦された。
親王が御所丸で詠じられた和歌が二首紹介されている。⓵夕暮れは湊もそことしらすけの入海かけてかすむ松原 ②はるばると朝みつしおの湊船こぎ出るかたは猶かすみつつ『説明板』より。
その後、井伊氏は今川氏に属し、永禄三年(1560年)桶狭間合戦で井伊直盛が討死し、家督を継いだ直盛の従兄弟・井伊直親は永禄五年(1562年)今川氏真に謀叛の疑いで、討たれた。
直親には男児(のちの直政)がいたが、まだ幼小(2才)の為、直盛の娘が女性の身ながら、直虎と改称して女当主となった(直親と婚約していたが、婚期を逸し、生涯独身)。
天正十年(1582年)直虎が死すと、直親の子直政が家督を継ぎ徳川家に仕えた。
後に、徳川四天王の一人に数えられ、江戸時代には彦根藩主となった家系である。