亀山城 (かめやまじょう) (作手城)
最寄地 愛知県新城市作手清岳十王前ナガラミ10−2 2014.12.8
亀山城 (かめやまじょう) (作手城)
最寄地 愛知県新城市作手清岳十王前ナガラミ10−2 2014.12.8
登城ルート
説明板
城跡北側
二の丸・土塁
本丸虎口
本丸・城址碑・土塁
本丸南の空堀
亀山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道301号線に面した道の駅「つくで手づくり村」(表記番地))[マップコード681 155 265*66]より、東に川に沿って約200m行く。橋を渡って約100m行くと木戸口がある(地図)。
木戸口(虎口)東に二の丸があり土塁が残っている。木戸口を登ると土塁に囲まれた本丸で、反対の西に虎口が開き、西曲輪、南曲輪があり、本丸下に空堀がよく残っている。
本丸には「亀山城址」の石碑、「亀山城由来記」が建てられている。
【歴史】 天授年間(1375~81年)上野国甘楽郡奥平城から作手地方に移住した奥平貞俊は作手領主山崎三郎左衛門高元を頼り、鴨ヶ谷甘泉寺に寓居し勢力人望を得て、川尻城を築き本拠としたが、応永三十一年(1424年)に亀山城を築き移った。
初代貞俊以降、2代貞久、3代貞昌、4代貞勝、5代貞能まで5代151年間この地に居住した。今川氏や武田氏、徳川氏など転属先を変えて生き延びてきた奥平氏の本拠地であった。
元亀年間(1570~73年)には、奥平貞能の子貞昌(信昌)が甲斐国の武田氏に従属したため、武田氏の三河侵攻の拠点となった。
だが、天正元年(1573年)には徳川氏へ再転属し、同年八月二十日貞能・貞昌(後の信昌)父子は、古宮城(北方約1㎞)に本拠を持つ武田勢の攻撃を受けたが、石堂ヶ根・田原坂に転戦して武田勢を敗走させた。
天正三年(1575年)この戦功によって貞昌は徳川家康により長篠城主を命じられ、移ったため、主要な城ではなくなった。
同年五月長篠・設楽ヶ原の戦いが勃発し、長篠城は武田勝頼軍1万5千の猛攻を受けたが、貞昌はよく籠城に耐え織田・徳川連合軍の援軍を得て勝利した。
この戦いぶりを信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。
その後信昌は新城城主となり、天正十八年(1590年)徳川家康の関東移封に従い上野国甘楽郡宮崎城3万石に移封となった。
関ヶ原の戦いの後、慶長七年(1602年)には奥平信昌の四男松平下総守忠明(後に大阪城、姫路城の城代となる)が城主となり作手藩1万7千石に封ぜられ作手支配の拠点となった。
慶長十五年(1610年)に伊勢国亀山城へ移封されると、城は廃城となった。