日近城 (ひぢかじょう) (市の史跡)
最寄地 愛知県岡崎市桜形町般興11 2023.1.15
日近城 (ひぢかじょう) (市の史跡)
最寄地 愛知県岡崎市桜形町般興11 2023.1.15
説明板
登城ルート
駐車場・登り口看板
武家屋敷跡
おふうの墓(左からおふう、おふうの祖母貞子、仙千代)
トイレ西の堀切
馬場
主郭東の堀切
主郭切岸
主郭・神社・説明板
西側の二郭
日近城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【感想】 岡崎市桜形町の乙川右岸にある標高約277mの山頂に築かれている。
山頂の主郭から西側に二郭、三郭があり、主郭の切岸は急で南側に帯郭、馬場、東側に堀切、大土塁、堀切と配置されて、標識が数多くあり分かりやすくなっている。
【案内】 県道35号線に面した広祥院(表記番地)東に大きな「日近城跡→」の案内看板があり(地図)、「日近の里」駐車場が利用できる[マップコード51 833 892*82]。
駐車場の上に武家屋敷の雛壇状の平坦地があり、石垣下を通ってやや東に行くと遊歩道が設けられている。登ると間もなく「おふうの墓」があり、その先の分岐を右に行くと馬場東のトイレに至り、直進すると主郭虎口に至る。
最高所の主郭には神社があり、東側に土塁が見られ説明板が建てられている。
西に二郭、南側に帯郭とそれに続く馬場があり、主郭東に堀切が見られる。馬場の東にも堀切があり、トイレのある平坦地に続いている。
平成二年(1990年)7月6日、岡崎市の史跡に指定された。
【おふうの墓】 おふうは日近城主2代目奥平久兵衛貞友の娘で、元亀元年(1570年)奥平本家(亀山城主)の仙千代(10才)、日近家のおふう(13才)等は、人質として武田方に送られた。
しかし、天正元年(1573年)奥平貞昌(信昌)は武田勝頼方に叛き、そのため仙千代(千丸:13才)らは鳳来寺口で処刑されさらし首となった。乳母と柳田専念寺の僧永順と百姓助左衛門はひそかに三人の首を奪って、おふうの生地であるこの地に葬った。
【歴史】 「広祥院由緒書」によれば、奥平氏3代貞昌が文明十年(1478年)日近に進出し広祥院を中興したとあり、日近城はこの時期に築城された。
奥平氏は14世紀の後半から作手(新城市)の亀山城に本拠を構え、勢力を拡大した。
3代貞昌は次男・貞直(貞頼・久兵衛)を日近に配し、日近奥平家の初代とした。
貞直は三河に勢力のあった今川氏についていたが、弘治二年(1556年)離反して織田氏に与したことから日近合戦となった。この時は今川方の軍をよく防ぎ戦果を挙げた。
しかし、半年後の雨山合戦で今川軍に負けた本家作手の4代貞勝により、貞直は放遂させられ、長男彦九郎は討ち取られた。
その後、日近は本家の支配となり、天正十八年(1590年)の徳川家康の関東入封により、廃城となった。