戸倉城 (とくらじょう)
最寄地 静岡県駿東郡清水町徳倉1920 2014.6.12
戸倉城 (とくらじょう)
最寄地 静岡県駿東郡清水町徳倉1920 2014.6.12
説明板
登城ルート
登り口の牧水碑
本丸跡・展望台
本丸跡
狩野川・三島市街
戸倉城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 県道139号線の東狩野川に突き出た標高75mの本城山の山頂部が戸倉城跡であり、本城山公園として整備され展望台が建てられている。北駐車場[マップコード50 048 001*45](地図)と東駐車場(地図)があり夫々登り口がある。
大手登り口は城主居館の在った龍泉寺(表記番地)山門左手に在り、途中に空堀と土橋がある。
主郭は東西40m・南北30mで土塁があったというが現在はない。展望台、四阿が建てられている。東に一段下がって堀切で隔てられた袖郭がある。
南側には見張り台に使われた天狗岩がある。東の尾根には東曲輪があり、三本の空堀がある。北東斜面に二段の平場とその最下段には裾郭がある。
西曲輪は本城山西端下にあり、堀切で隔てられ尾根上の小曲輪が八幡神社まで連続してある。
【歴史】 戦国時代、北条氏綱が築いたといわれる。 伊豆と駿河の国境を守る城として重視された。
三国同盟が破れた後、永禄十一年(1568年)から元亀二年(1571年)にかけて武田氏と北条氏との戦いの舞台となった。天正八年(1580年)武田勝頼は三枚橋城に本拠をおいて戸倉城を攻めた。
北条方の城将だった笠原新六郎政尭(まさたか)は良く城を守ったが、天正九年(1581年)に武田氏に寝返り、戸倉城は武田氏の城となった。
天正十年(1582年)に武田氏が滅亡した後は、再び北条氏のものとなった。天正十八年(1590年) 豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏の城兵は戸倉城を捨て、韮山城に撤退した。その後廃城となった。