丸山城 (まるやまじょう)
最寄地 三重県伊賀市枅川82-10 2016.4.23
丸山城 (まるやまじょう)
最寄地 三重県伊賀市枅川82-10 2016.4.23
登城ルート
登り口
西の丸跡の配水池
本丸跡
本丸跡・奥が天守台
天守台
宝篋印塔墓
天守台・城址碑
二の曲輪
丸山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 伊賀線「丸山駅」の南、国道422号線より県道683号線を踏切を越して100mほど行き、右折し橋を渡って約200mゆくと左手に登り口があり、標識が建てられている[マップコード131 409 612*48] (地図)。駐車スペースは無く、南に150m行った踏切横に駐車できる。
登ってゆくと、西の丸跡に「丸山簡易水道配水池」の盛り土があり、奥より遊歩道が付いている。平坦地があり、虎口を登ると本丸跡がある。西側に天守台があり、「丸山城址」の石碑が建てられている。天守台の南に宝篋印塔墓がある。
丸山地区の方へ(東へ)行くと、虎口があり広い二の曲輪がある。
【歴史】 天正三年(1575年)伊賀国で国司・北畠具教(とものり)が隠居城として築城を決め、同地域の土豪を説得、翌年正月より人夫を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり、三瀬館に引き上げた。
北畠氏の養子となっていた織田信長の次男・北畠信意(織田信雄)は、伊勢国を掌握し、伊賀国の領国化を狙っていたが、天正六年(1578年)二月、伊賀国の郷士・下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄は同年三月家臣滝川雄利(かつとし)に丸山城の修築を命じた。
これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。
規模壮大な城であると知り、これに驚いた伊賀郷士11名が集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。
丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、天正六年(1578年)十月二十五日に総攻撃を開始した。
不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。
翌天正七年(1579年)九月十六日、北畠信意は八千の兵を率いて伊賀国に三方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し北畠信雄軍を伊勢国に敗走させた。第一次天正伊賀の乱と呼ばれている。
敗戦の報を知った織田信長は激怒した。天正九年(1581年)九月三日、再び北畠信意を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻、同月六日より戦闘が開始され、各地で進撃し同月十一日にはほぼ伊賀国を制圧した。第二次天正伊賀の乱と呼ばれている。
同年十月九日には織田信長自身が伊賀国に視察に訪れている。織田信長は阿排郡、伊賀郡、名張郡を滝川雄利に、山田郡を織田信兼にそれぞれ与えた。
廃城は不明である。天正六年(1578年)の丸山城の戦いで廃城になったという説があるが、一方滝川雄利が居城し続けた場合、織田信雄と豊臣秀吉の対立が進んだ天正十二年(1584年)に滝川雄利は、伊賀国より伊勢国松ヶ島城へ入城、この時に放棄されたと考えられている。『ウィキぺディア』より。