松倉城 (まつくらじょう) (県の史跡)
最寄地 岐阜県高山市上岡本町1‐590 2014.11.7
松倉城 (まつくらじょう) (県の史跡)
最寄地 岐阜県高山市上岡本町1‐590 2014.11.7
登城ルート
公園東の搦め手登り口
西尾根の堀切
南西角櫓石垣
本丸外曲輪石垣
本丸外曲輪石垣
本丸虎口石垣
本丸跡・土塁・城址碑
東側の二の丸跡
松倉城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 「飛騨の里」(表記番地)の南に100m付近に案内板があり、遊歩道登山口がある。車で南西約70mの三叉路を左折800mほど登ると駐車場が用意され、公園となっている[マップコード 191 133 693*20 ](地図)。
標識のある搦め手階段を登って東に150mほど行くと、堀切がありその先に松倉城跡の石垣が見える。
西南角櫓の石垣がよく残り、それに続いて三の丸、二の丸が東西に並び、その中間から北に本丸外曲輪があり石垣がよく残っている。
標高856.7mの本丸跡には土塁、石塁が残り、案内板や「史蹟松倉城趾」の石碑、供養塔が建てられている。
昭和三十一年(1956年)11月14日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 応永年間(1394~1428年)三木正頼は南飛騨竹原郷に興って益田郡(下呂市)を横領し数世の後自綱に至って高山盆地に侵攻した。
三木良頼は永禄元年(1558年)長子・良綱(自綱)を将として、天神山城(後の高山城)の高山外記と畑佐城(新宮町)の山田紀伊守を討った。
三木自綱は天正五年(1577年)中山城(下岡本町)の岡本豊前守を討ち、白川郷を除く一円を支配した。
天正七年(1579年)三木(姉小路)自綱(よりつな・頼綱)によって築城され、桜洞城(下呂市萩原町)を冬城に、松倉城を夏城とした。
天正十年(1582年)八日町の戦いで江馬輝盛を倒すと、鍋山城主三木顕綱、高堂城主広瀬宗域らを次々に倒して、飛騨全土を平定した。
この頃自綱は越中の佐々成政に通じて豊富秀吉に従わなかったため、天正十三年(1585年)秀吉の家臣金森長近・可重(ありしげ) 父子に攻められた。
自綱は高堂城に迎え、戦って敗れ、自綱の次男・秀綱は松倉城に拠って死守した。しかし勇将畑安高が山蔵宗次に討たれ、また藤瀬新蔵が裏切って金森に通じ、闇夜に火を放ったため、落城した。
その後金森氏の管理下に置かれ改修が行われたが、高山城の築城により廃城となった。