楽田城 (がくでんじょう)
所在地 愛知県犬山市城山97 2014.11.25
楽田城 (がくでんじょう)
所在地 愛知県犬山市城山97 2014.11.25
土塁・由来石碑
楽田城址石碑
説明板
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 楽田小学校(表記番地)の校舎西に隣接して「城山」、「城山健児の歌」の石碑、説明板があり、土塁上に「楽田城跡」の石碑が建てられている[マップコード4 894 012*76](地図)。
昭和五十四年に学校敷地が拡大されるまでは、土壇や堀の痕跡があった。裏門が楽田城の東方にある常福寺(犬山市北大門)に移築され、山門として利用されていると伝えられるが定かではない。
【歴史】 永正年間(1504~21年)に尾張守護代であった織田久長が築城したと伝わる。
以後は楽田織田氏の居城となったが、織田寛貞(織田忠寛の父)の代に、永禄初年に尾張で最大勢力となった織田家末流の織田信長についた犬山城主織田信清に攻略され、信清の出城となった。
永禄五年(1562年)に信清は信長に離反したために犬山城を追われ、楽田城は信長の武将・坂井政尚が守備した。
しかし坂井氏は長男の久蔵尚恒が、元亀元年(1570年)七月の姉川の戦いで討死、さらに政尚自身も同年十二月に近江国滋賀郡堅田(現在の大津市堅田)で戦死したともあり、楽田城には、梶川高盛が入って城主となった。
その後小牧・長久手の戦いで前線基地となり、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の部将であった堀秀政が入り、さらに秀吉自身も陣所としたという。
合戦終結の講和条件により戦後、楽田城は破却廃城となった。