入尾城 (いりおじょう)
所在地 愛知県瀬戸市鹿乗町732 2014.12.12
入尾城 (いりおじょう)
所在地 愛知県瀬戸市鹿乗町732 2014.12.12
八幡社
八幡社東
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 八幡社(表記番地)から東の一帯が城跡と伝わるのみで、遺構は何も残っていない[マップコード500 037 300*62](地図)。
南には東谷山が聳え、北、東、西の三方には庄内川(玉野川)と水野川が流れ、また庄内川沿いは断崖(玉野川峡谷)となっており、自然の要害を利用した城である。
同地は庄内川の主要な渡しの一つである「入尾の渡し」もあり、交通の要所でもあった。
古絵図には「東西三十二間 南北三十一間 四方一重掘 玉野川ニ添 入尾城跡」と記されている。
【歴史】 大治四年(1129年)、鎮守府将軍平良兼の子孫である平(滝口)景貞が入尾に入郷し、保元の乱(1156年)~平治の乱(1159年)の頃に築城したと伝えられる。平景貞は水野氏を名乗り、以降、尾張国山田荘水野郷や志段味郷を支配下においた水野氏の居城となった。
承久三年(1221年)に起きた「承久の乱」で、高家の子で水野城主となった水野高康、高康の弟で志田見(志段味)城に住んだ高重、行高、高康の嫡男有高らは、山田重忠に属し、朝廷方(後鳥羽上皇の院宣)に応じて起ち、幕府軍20万と対戦し、ほぼ全滅した。
有高が戦死したことから、高康は弟の高俊を養子として京都に住んだ。山田重忠は嵯峨で自刃した。
応永十九年(1412年)十二月二十八日に水野致高(むねたか)が城内で没した後、廃城となった。