桜城 (さくらじょう)
最寄地 長野県諏訪郡下諏訪町小湯の上3875 2019.8.18
桜城 (さくらじょう)
最寄地 長野県諏訪郡下諏訪町小湯の上3875 2019.8.18
登城ルート
鎌倉街道ロマンの道・宝物殿
民家横を矢印へ
一念坂標識
神社
虎口・鉄塔
主郭
堀道(東側の道路へ)
東側2番目の堀切
東側3番目の堀切
桜城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高90m】
【感想】 諏訪大社下社や諏訪湖を望む標高874mの尾根先端部に築かれている。
主郭は50×25m程の楕円形で、公園となっている。北東側尾根に草が生えているが、3重堀切が残っている。
【案内】 諏訪大社下社秋宮の駐車場が利用できる[マップコード75 266 545*72]。
宝物殿から「鎌倉街道ロマンの道」を歩いて表記番地手前から桜城へ「一念坂」と呼ばれる山道がある(地図)。
虎口に鉄塔があり、主郭は公園となっており、北東の尾根に三重堀切が残っている。最初の堀切から南東へ下ってゆく道があり、東側の道路に通じている(地図・一念坂よりこちらの方が解りやすい)
【歴史】 鎌倉時代末期、諏訪大社下社の大祝(おおほうり)であった金刺氏により築かれた金刺氏の居城で、有事の際の詰城として山吹大城があり、その前方に小城がある。
金刺氏は「中先代の乱」「桔梗ヶ原の合戦」「大塔合戦」などの抗争を経て、諏訪大社上社の大祝・諏訪氏との間に政治姿勢の相違が重なり、対立して行った。
やがて上社と下社は武力衝突し、上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払う結果となった。その後も、抗争は続き概ね下社の劣勢であり、衰退の一途であった。
永正十五年(1518年)諏訪頼満は、金刺昌春が籠城していた萩原の要害へと攻め入った。この萩原の要害が山吹城の大城ではないかと推定されている。
その後、武田氏の城となり、天正十年(1582年)武田氏滅亡後、廃城となったと云われる。