富崎城 (とみさきじょう) (滝山城)
最寄地 富山県富山市婦中町富崎5397 2014.10.5 10.24
富崎城 (とみさきじょう) (滝山城)
最寄地 富山県富山市婦中町富崎5397 2014.10.5 10.24
説明板
登城ルート(緑線は車道)
虎口
A郭(本丸)・神保城趾之標
本丸・井戸
井戸
内堀
C郭(三郭)
外堀
富崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 八阪神社(表記番地)より西に約400m登って行くと「丘の夢牧場」ゲートがあり、その手前より北に道があり100m先に説明看板がある。引き込み道路に駐車できる[マップコード40 194 617*01]。
その西の杉林の中が城跡であり、山田川を斜辺とする三角形状であり、南北約200m東西約160mの広さを有し、四つの曲輪からなり、案内板の立っている所がD郭で、東側が4mほどの切岸となっている。
その北の虎口より登るとA郭(本丸)となり「神保城趾之標」のコンクリート柱碑が建てられている。また直径2.6mの井戸、土塁が残る。南側に上幅11~14m・深さ2mの内堀が残り、南に馬出しにあたるB郭、一番広いC郭があり、その南側が外堀となって牧草地と隔てている。
【歴史】 戦国時代、越中国最大の勢力を誇った神保(じんぼう)氏の有力支城の一つであった。
『越登賀三州志』に、嘉吉元年(1441年)神保八郎左衛門が居城したと伝え、それから百年ほど経て、富山へ進出した神保長職(ながもと)が天文年間(1532~55年)に本格的に築城したと考えられる。
富崎に城が築かれたのは、北西そばの長沢が南北朝時代より婦負郡(ねいぐん)の政治の中心地だったこと、また射水郡から飛騨に通じる街道の要地であったことなどによる。
神保長職は永禄年間(1558~70年)居城の富崎城を上杉謙信に攻められ、近くの蓮華寺で討死したと伝承がある。しかし当時の資料によると長職は永禄五年(1562年)の戦いで上杉謙信に降り、その後は増山城に本拠を移し上杉氏に属した。
元亀二年(1571年)十二月以降に長職が没すると、富崎城には長職の旧臣水越氏が一向一揆衆と共に城内に立て籠もり、翌年九月、謙信に攻められ落城した。この時謙信は城内を悉く焼き払い、城を取り壊した。
天正年間(1573~92年)には、一時上杉氏が支城として使ったとみられ、天正九年(1581年)には、長職旧臣の寺嶋牛之助(盛徳)らがここを拠点に織田信長方に対抗したが、同年五月、城を攻められた牛之助らは城に火を放ち、五箇山へ落ち延びて行った。
その後佐々成政の支城となり城生城(八尾町)の斎藤氏攻めの拠点として使われたとみられるが、詳細は不明である。
成政が秀吉に降伏した天正十三年(1585年)頃には、廃城となったと考えられる。