妻木城 (つまぎじょう) (県の史跡)
所在地 岐阜県土岐市妻木町 2014.11.23
妻木城 (つまぎじょう) (県の史跡)
所在地 岐阜県土岐市妻木町 2014.11.23
登城ルート(緑丸は城士屋敷跡/緑線は車道)
妻木城士屋敷跡
登り口
三の曲輪跡
二の曲輪虎口
二の曲輪と奥に主郭石垣
主郭跡・八幡神社
蔵跡
堀切
太鼓櫓跡
妻木城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高140m】
【案内】 県道19号線より妻木川に架かる「旭橋」を渡った県道388号線を西に約300m行くと、道路南に、案内板があり「妻木城士屋敷跡」の屋敷曲輪があり、雛壇状の石垣がよく残っている[マップコード98 158 132*44] (地図)。最上段に「御殿跡」がある。
西の細い道を南に170m行くと駐車スペースがある。その東にある登山道(地図)を南東へ300m程登ると三の曲輪があり、北に妻木町の家並が臨める。
その南に鳥居の建つ二の曲輪があり、上段に石垣がよく残る主郭がある。標高407m(比高約140m)の主郭には八幡神社、旗立岩、建物礎石が残っている。
主郭西に蔵跡があり堀切で切られて、太鼓櫓跡があり土塁が残っている。堀切を南に下ると井戸跡がある。
昭和三十一年(1956年)11月14日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 暦応二年/延元四年(1339年)土岐頼貞の孫・土岐頼重が築城したとされている。土岐氏が衰退してからは明智氏の所領になり、明智氏一族である妻木氏の居城となった。
天正十年(1582年)本能寺の変後に起きた「山崎の戦い」において、当時の城主・妻木広忠(第12代目の城主)は明智光秀軍に属し、敗北したため自刃した。光秀の正室である妻木煕子は妻木広忠の娘である。
その後妻木頼忠が跡を継いだ。その頃、森長可(ながよし)が土岐郡、恵那郡内の反抗する勢力の掃討をし、長可は手始めに高山城主・平井頼母に使者を送り、城を明け渡すように要求したが、これに応じなかったため頼母を自刃に追いこみ、その後、肥田氏を入城させた。
次に妻木城主・妻木頼忠にも、従うよう使者を送ったが、頼忠は拒否した為に攻めた。頼忠は城兵と共に奮戦したが、勝算ないと見て和議にもちこみ、長可に従うこととなった。
遠山氏らと共に金山城の排除を画策した事が原因であるといわれている。天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いの際に頼忠は森長可の家臣だったため豊富秀吉側についた。現在の国道19号線の通る内津峠に布陣した。その際に麓にあった町は焼失したという。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの際には徳川家康側につき、頼忠はこの地域を守るよう命じられ、父である妻木貞徳と共に岩村城主の田丸直昌と戦った。
田丸直昌の家臣である田丸主水は妻木城から近い所に砦を築き、諸将の行動を封じ鎮圧しようと試みたが、頼忠は岩崎城主である丹羽氏次らを誘って田丸領の各所に放火して対抗し、高山城の城攻めを図ったが、田丸軍は高山城に火を放ち土岐砦へ退却して立て籠もった。
頼忠は田丸軍の退路を完全に遮断するため現在の瑞浪市寺河戸町付近に砦を築いた。このほか、田丸領内である明知城と小里城は岩村城の支城となっていたので城番が居城していたが、城主である遠山利景、小里光親は頼忠らの支援を受けて、まず明知城と小里城の攻撃を始めてその日に明知城を、翌日に小里城を奪回することに成功し、遠山利景、小里光親は城に戻ることができた。
その後、岩村城を攻めようとしたが、攻略難落の城なので苦戦していたが、しばらくすると関ヶ原の戦いが終わり、東軍の勝利によって城主田丸直昌も東軍に降り、岩村城を守備していた田丸主水も遠山利景に城を明け渡した。
その戦功により慶長六年(1601年)に妻木頼忠は徳川家康から改めてこの地域を所領として与えられた。
その頃にはこの城はほとんど使用されず、妻木氏は山麓にある居館に住んだ。江戸幕府による全国が統一されると、妻木頼忠は山の上での生活が不便となり、山麓の北に屋敷を築きそこに住み始めた。
元和年間(1615~24年)頃には妻木城の機能は終り、北側山麓にある御殿、妻木城士屋敷が主に使用された。
その後頼忠の子の妻木頼利、次いで頼利の子の妻木頼次が跡を継いだ。土岐郡内7500石の領主だったが、跡継ぎがいなかったので万治元年(1658年)に頼次が死去すると、妻木氏は3代で廃絶した。
その後、頼次の弟の妻木幸広が妻木上郷500石にて妻木家を再興し、明治維新に至った。