飯山城 (いいやまじょう)
所在地 長野県飯山市飯山2749 2014.7.16
飯山城 (いいやまじょう)
所在地 長野県飯山市飯山2749 2014.7.16
岩井信能公の石碑・移築門
二の丸跡・本丸石垣
本丸石垣
本丸桝形虎口
石塁
櫓台・案内看板
葵神社
飯山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 千曲川の西に位置する丘陵に築かれており、西側に駐車場が用意されている[マップコード293 074 304*41]。
本丸跡には葵神社が祀られ、石垣が良く残り櫓台がある。その北の二の丸跡は芝生の城山公園となっている。その北に三の丸跡があり植物園になっている。
西に帯曲輪があり、飯山市民会館(表記番地)が建てられ、その西の西郭に石碑、移築門、飯山市弓道場がある。
昭和四十年(1965年)7月29日、長野県指定史跡となっている。
【歴史】 弘治三年(1557年)武田氏によって、高梨政頼は高梨氏館から飯山城へと追われた。
永禄七年(1564年)に、越後の上杉謙信が、信濃一円に勢力を伸ばしてきた甲斐国の武田信玄に対抗して、越後の防御・信濃計略の前線基地として本格的に築城した。
『上杉輝虎書状案』によると、永禄七年(1564年)年十月一日に謙信自ら譜代の完了を確認したことがわかる。
天正十年(1582年)以降は、上杉景勝の居城となり、城代に岩井信能が入れられた。後に、豊臣秀吉の家臣である石川光吉が代官として千曲川両岸を支配したが、慶長三年(1598年)に関一政が3万石で入封した。関氏はその翌年に美濃国土岐へと移封された。
慶長八年(1603年)松平忠輝が信濃国川中島に18万石で入封したため、その家臣である皆川広照が傅役として4万石で入れられたが、忠輝の不行跡を徳川家康に訴えたところ、逆に家老として不適とされ除封された。
慶長十五年(1610年)堀直竒が坂戸城より移封された。その後、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏と目まぐるしく城主が替わった。
享保二年(1717年)、本多助芳が越後糸魚川より入封すると、以降本多氏十代が明治維新まで飯山城に居を構えた。
明治元年(1868年)、旧幕府軍衝鋒隊の攻撃を受け城下を焼かれた(飯山戦争)。城の建物は、廃藩後に破却や火災によって失われた。