柿崎城 (かきざきじょう)
最寄地 新潟県上越市柿崎区柿崎408 2017.6.6
柿崎城 (かきざきじょう)
最寄地 新潟県上越市柿崎区柿崎408 2017.6.6
国道8号線歩道
国道8号線歩道横の入口
木崎山登り口
城跡看板
木崎山・展望台
楞巌寺山門
柿崎和泉守景家之墓
柿崎城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高20m】
【感想】 比高約20mの木崎山展望台からは、柿崎川や柿崎地区の住宅や遠く日本海が望める。遺構はほとんど見られない。
【案内】 国道8号線「柿崎幹部交番前」交差点より西の住宅団地の表記番地付近に路駐する[マップコード298 662 212*24](地図)。
そこより国道8号線西側歩道に上がり、高速道路進入路の下を潜って間もなく、右に木崎山(城崎山)入口があり、説明案内板が建てられている。
左に登ると、「柿崎城跡」の大きな看板があり、最高所に展望台が建てられている。
南東約6kmにある楞巌寺(りょうごんじ・柿崎区芋島2727)山門は柿崎城搦め手門を移築したものと伝わり、寺に柿崎和泉守景家の墓がある。
【歴史】 築城年は不明であるが、鎌倉時代に当地の地頭となった大見氏から派生した柿崎氏が築城したものと考えられている。
南北朝時代、柿崎氏は北朝に属するも南朝側の風間氏の攻撃により落城し、柿崎氏は城から追われたのち、この城は南朝側の拠点の一つとなった。
しかし、最終的に北朝側の勝利に終わった為、柿崎氏が城主に復帰した。
戦国時代になると、柿崎氏は長尾氏(上杉氏)の重臣となっている。永禄四年(1561年)九月十日の第4次川中島合戦の際、柿崎和泉守景家は上杉軍の先陣として突撃し、名を馳せた。
また柿崎氏が一時的に没落した時に発生した御館の乱の記録(柿崎晴家に関する記述や猿毛城の同士討ちの記述など)によると、柿崎氏は領地を完全没収されていた訳ではなく当地に留まっていたようである。
なお、決定的な資料は見つかっていないが縄張りなどの考察により、この城は平時の執務場所であり、戦時の時は柿崎氏のもうひとつの居城である猿毛城を使用したと考えられている。