岡崎城 (おかざきじょう) (龍城) (日本100名城45)(日本さくら名所100選)
所在地 岡崎市康生町561 2012.5.1 2023.1.15
岡崎城 (おかざきじょう) (龍城) (日本100名城45)(日本さくら名所100選)
所在地 岡崎市康生町561 2012.5.1 2023.1.15
復元大手門
三重天守
家康公銅像
本丸北側の清海堀
三重天守・廊下橋
太鼓門石垣
本丸二の丸間の空堀
本丸北西の石垣・空堀
岡崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 東海道・国道1号線「岡崎公園前」交差点の東200mから南に少し入ると有料駐車場が用意されている [マップコード51 724 445*53]。
城跡は乙川の北岸に位置し、大手門が復元して建てられ、岡崎公園の西に花時計や徳川家康公銅像がある。天守の北、二の丸跡に能楽堂、「三河武士のやかた家康館」が建てられている。
龍城神社の西に三重天守に二重櫓が連なった天守(昭和三十四年再建)がある。東照公遺訓の碑も建てられている。天守の南、乙川との間に堀が残っている。
北側の2の丸との間に2条の空堀がよく残っている。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(45番)に選定された。
【歴史】 享徳元年(1452年)龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏により築かれた。
享禄四年(1531年)松平清康(家康の祖父)が城主となり城郭の整備、勢力の拡大をおこなったが家臣の謀反で命を落とした。
天文十一年(1542年)竹千代(のちの家康)が城内で生まれた。天文十八年(1549年)松平広忠が家臣の謀反で殺害されると、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれた。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康(後に徳川家康)は岡崎城を奪還し今川氏より独立した。
元亀二年(1571年)家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城には子の松平信康が入ったが、謀反の疑いをかけられ自刃し、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めた。
天正十八年(1590年)家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉政が入り、家康に対する抑えの拠点として近世城郭に整備した。
関ヶ原の戦いの後、田中吉政は筑後一国32万5千石を許され柳川城主となって移り、 慶長七年(1602年)徳川譜代の重臣・本多康重が上野国白井城より5万石で入城、岡崎藩が成立した。
以後譜代大名が城主となった。元和三年(1617年)三重の天守が建てられた。
本多家四代、水野家七代、松井松平康福(やすよし)、本多家六代を経て明治二年本多忠直が城主となった。
明治四年(1971年)廃藩置県により城内に岡崎県、額田県の県庁が置かれた。
明治五年県統合で県庁は名古屋市に移り、明治六年廃城令で建物は破却された。