古川城 (ふるかわじょう) (飛騨古川城・蛤城) (県の史跡)
最寄地 岐阜県飛騨市古川町高野1345 2017.8.25 2018.10.7
古川城 (ふるかわじょう) (飛騨古川城・蛤城) (県の史跡)
最寄地 岐阜県飛騨市古川町高野1345 2017.8.25 2018.10.7
登城ルート
登り口
東中腹の郭
虎口
東の郭・城跡標柱・蛤石
主郭
北西最下段の郭
北西の堀切
古川城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 宮川左岸の標高629mの山頂にあり、東西に細長く階段状の郭があり、最高所の主郭に櫓台がある。
主郭の北西に腰郭があり、更に北西に下ると広い郭があり、北西端に堀切がある。
【案内】 県道471号線の西にある(株)吉 城コンポ(表記番地)先の廃屋の横に登り口がある[マップコード191 487 312*67](地図)。会社のダンプが行き交い駐車スペースは少なく、県道の路肩に駐車し250mほど歩く。
登り口は草が多いが、その先は開け歩きやすかった。東側中腹に広い郭がある。
左に登ると、虎口に着き、段郭に 石垣の残欠があり、東の郭に 城跡標柱が建てられ、蛤石が置かれている。
主郭北側の犬走りの先に腰郭が見られ、 西側尾根に堀切がよく残っている。
昭和三十四年(1959年)11月16日、岐阜県の史跡に指定されている。
【歴史】 鎌倉時代中期、姉小路氏は飛騨国に領地があり、南北朝時代に入ると後醍醐天皇より姉小路氏は飛騨国司に補任され、代々飛騨国司であった。
室町幕府から代々派遣されていた北朝方の飛騨守護・京極氏に敗れ、一族も小島城を本拠とする小島家(宗家)・古川城を本拠とする古川家(古川氏)・向城を本拠とする向家(向氏、向小島氏とも)に分裂した。
その後、古川家の古川(姉小路)基綱・済継親子が小島家を圧倒して宗家の地位を奪うが、息子の秀綱に先立たれた済継が死亡すると、古川氏は断絶状態となった。
これを利用した京極氏の家臣・三木良頼が古川家の名跡継承を朝廷に認めさせ、古川城を領した。これが戦国大名・姉小路氏である。なお、没落した小島氏も小島時光の代に三木(姉小路)頼綱の息子を養子に迎えて臣従した。
その後、戦乱で牛丸氏に渡った後、放棄された城に、永禄七年(1564年)に武田家重臣山県昌景から逃れた上杉家家臣・塩屋秋貞が入った。
しかし、秋貞は謙信死後に織田信長に仕え、信長死後の天正十一年(1583年)に討死した。
天正十三年(1585年)、2代金森家当主金森可重(ありしげ/よししげ)は、養父である金森家初代金森長近と共に飛騨平定戦で活躍し、戦国大名姉小路(三木)氏を滅ぼすと、従五位下・出雲守に任官し、飛騨国古川城1万石の城主となり、古川城に入った。
天正十四年(1586年)に宮川対岸に平城の増島城が完成すると、可重は古川城から移った為、古川城は廃城となった。