二俣城 (ふたまたじょう) (蜷原城)
所在地 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990-2 2014.6.14
二俣城 (ふたまたじょう) (蜷原城)
所在地 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990-2 2014.6.14
登城ルート(緑線は車道)
虎口石垣
北曲輪・旭ヶ丘神社
本丸跡・天守台
本丸跡・天守台
二の丸跡
二の丸跡・石垣
水の手曲輪跡
二俣城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 城跡は天竜川の南東比高約40mの高台にあり、城山公園として整備されている。旭ケ丘神社(表記番地)の建てられている北曲輪の北に駐車場があり[マップコード26 712 137*45]、南に堀切がある。
西に登ると土塁・石垣の残る本丸があり、本丸広場にはゲートボールに興じる人が見られた。広場の西に天守台石垣が良く残っている。
南に一段低い二の丸跡は、花木園となり石垣が残り、稲荷神社が祀られている。北西に下ってゆくと、堀切があり、その北に竹林の中に階段状の西曲輪があり滑り台が設置されている。
又水の手曲輪に四阿が建てられ、その先は天竜川岸になる。付近に笹岡古城(浜松市天竜区役所・二俣町二俣481)と鳥羽山城(鳥羽公園・二俣町鹿島420の北)がある。
【歴史】 戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、今川氏が拠点とするために城館を築いたのが初めと云われる。
その後今川氏は当主・義元の勢力下で勢力を伸ばし、その被官松井氏が城の位置を変更し、天竜川を見下ろす小山に築城したといわれるが確実な史料はない。
松井宗信は永禄三年(1560年)五月、桶狭間の戦いで当主義元とともに討死するが、その子・松井宗恒も、跡を継いだ今川氏真(うじざね)に重用され、3千貫を与えられた。
ところが永禄十二年(1569年)、今川氏は武田信玄と徳川家康の挟撃にあって滅亡した。松井氏は武田信玄への従属の道を選ぶが、信玄と敵対した徳川家康に攻撃され、降伏した。
家康は二俣城に鵜殿氏長を城代として置き、武田勢の攻撃の危険が高まると譜代の家臣・中根正照に城代を交代させた。
元亀三年(1572年)十月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼の軍が二俣城を攻撃した。徳川方からすれば落城すると本拠・浜松を守る拠点がなくなるため、城代中根正照以下必死に抵抗し、城の堅固さも手伝ってよく守っていた。
そこで攻めあぐねた勝頼は、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量の筏を流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという(『三河物語』)。
二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、十二月二十三日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突した。
武田軍は大勝し、十二月二十八日には信玄は越前の戦国大名・朝倉義景に戦勝を報告するとともに織田信長を討つよう出陣の催促の手紙を送っている(『伊能文書』)。
信濃先方衆の依田信蕃(よだのぶしげ)が城主として入った。家康は信玄の死をうけ直ちに遠江・三河にある武田の諸城を攻撃した。
二俣城にも元亀四年(1573年)六月に攻勢をかけたが、この時撤退している。一方で逆に遠江東部の高天神城が武田の新当主・勝頼によって落城させられるなど、徳川氏にとっては厳しい状況が続いていた。
ところが天正三年(1575年)五月二十一日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗した。
家康は直ちに反攻を開始、六月には二俣城にも軍を出し、付城(前線基地)を二俣城の隣の小峰である鳥羽山城ほか五箇所に作って包囲した。
同年八月十四日、家康は遠江の東端にある諏訪原城を落城させたが、二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。
しかし同年十二月二十四日、城兵の安全な退去を条件に開城し、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退した。
家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、万全な城の修築工事を行わせた。武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しなかった。
天正七年(1579年)七月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされ、この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。
家康は悩んだ末、まず築山殿を殺害、さらに九月十五日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき介錯を務めた服部半蔵は、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る。
大久保忠世が城主を務めていたが、本能寺の変後の家康の勢力伸張に伴い忠世自身が信州惣奉行として小諸城に在番することが多く、二俣城にはあまり在城していなかった。
天正十八年(1590年)、家康の関東転封に伴い堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となり吉晴の弟・宗光(氏光)が入ったが、慶長五年(1600年)に堀尾氏が出雲に転封となり、廃城となった。
明治二十九年(1896年)、日清戦争で戦死した地元有志を弔うことを目的で北曲輪跡に旭ヶ丘神社が建立され、日露戦争の戦死者なども合祀された。
太平洋戦争後には城一帯は地元の公園として整備され、現在に至っている。