古国府城 (ふるこくふじょう) (如意城)
所在地 富山県高岡市伏木古国府17‐1 2014.10.26
古国府城 (ふるこくふじょう) (如意城)
所在地 富山県高岡市伏木古国府17‐1 2014.10.26
土塁・太鼓堂
勝興寺唐門
勝興寺唐門
勝興寺本堂
南側土塁
越中国庁址の石碑
古国府城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 勝興寺(表記番地)の総門を潜った右手に駐車場がある[マップコード40 726 714*46]。
城跡には名刹勝興寺が建っており、城域は勝興寺の寺域全体に及ぶとされているが、それ以上である可能性も有る。寺の周囲特に南側の大きな土塁や東側に残る堀は古国府城のものであるとされている。
南側土塁の前に、「水の涸れない池」や大きな自然石に刻まれた「越中国庁址」の碑がある。付近に越中国府があったとされる。
高岡市教育委員会「勝興寺の歴史と宝物」が堀前に立てられている。古国府城の面影は土塁に感じる事が出来る。「勝興寺」には城郭伽藍として、隅櫓の趣きの太鼓堂、唐門、本堂を始め重要文化財に指定されている十二棟の建造物がある。
【歴史】 天正年間、守山城主神保氏張によって築かれたと言われているが、それ以前から存在した可能性もある。
天正五年(1577年)十二月二十三日、『上杉家家中名字尽』に神保安芸守(氏張)と勝興寺の名前が見える。
天正九年(1581年)四月、越中木舟城主石黒左近成綱によって越中安養寺御坊(勝興寺・小矢部市末友)が焼き討ちされ、焼失した。
天正十一年(1583年)、佐々成政が越中平定し、神保氏張も平定に尽力し成政の配下に名を連ねた。
天正十二年(1584年)、成政が豊臣秀吉と敵対姿勢を強め、隣国の前田利家との争いも激しさを増し、成政は越中一向一揆勢力を味方に付ける為に古国府城の一円を勝興寺に寄進し、安養寺御坊より移設(再建)された。
これにより古国府城は事実上、廃城となったと言える。
天正十三年(1585年)、富山の役で成政は豊臣秀吉に降伏して前田家の所領となるも、勝興寺は手厚い保護を受けた。以降幕末まで前田家と勝興寺は血縁的にも密接な関係を保ち続ける事となった。