本与板城 (もとよいたじょう) (県の史跡)
最寄地 新潟県長岡市与板町本与板230 2014.7.17
本与板城 (もとよいたじょう) (県の史跡)
最寄地 新潟県長岡市与板町本与板230 2014.7.17
登城ルート(緑線は車道)
登り口
万歳閣跡
二の郭(左)・大空堀・実城跡(右)
実城跡
実城跡・土塁・碑
南郭跡
本与板城 実城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 県道274号線より西に行った表記番地の北350mに見学者用駐車場が用意されている[マップコード58 457 540*70]。
約40m先に登り口があり(地図)、西に登ると日清戦争慰霊碑の立つ「万歳閣」跡がある。その西に実城と二の郭の間に大堀切がある。
比高約40mの本丸虎口付近に「本与板城址」碑があり約40mの円形の曲輪があり「実城(みじょう)」と呼ばれている。土塁が残りその前に「本与板城趾」や聖徳大子坐像のあった「精霊院」跡の石碑、配置図看板がある。
西に大堀切で隔てられ、二の郭があるが草が茂っていた。三の郭、南郭、帯曲輪などがある。
昭和六十三年(1988年)3月25日、新潟県の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期は不明だが、建武元年(1334年)に新田氏一族の籠沢入道が築城したと伝えられている。
その後、越後国守護の上杉氏の重臣飯沼氏が居城とした。しかし、永正四年(1507年)、越後守護代長尾為景と守護上杉房能(ふさよし)が戦った「永正の乱」が起きた。
為景に攻められ上杉房能は敗れ自刃し 飯沼氏も滅んだため、長尾氏の家臣直江実綱(景綱)が城主となった。景綱の娘・お船の夫が兼続である。
しかし、直江兼続は後に与板城に居城を移した。本与板城は支城として機能したとも云われるが、慶長三年(1598年)上杉景勝と共に直江兼続が会津に転封されたため、廃城になったと推定されている。