吉窪城 (よしくぼじょう) (小市城)
最寄地 長野県長野市塩生甲3031 2015.10.4
吉窪城 (よしくぼじょう) (小市城)
最寄地 長野県長野市塩生甲3031 2015.10.4
登城ルート
駐車スペース・入口
虎口
本丸・石壇・説明板
石壇・社
土塁・石垣
石垣
吉窪城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内】 国道19号線の犀川に架かる「両部橋」の北より西に小田切ダム北より右折する。1.9㎞行った「吉窪本郷」より東に細い道を400m登った「1号古墳」の先に駐車スペースがある [マップコード54 120 721*74](地図)。
南に登ると標高619m比高約40mの吉窪城山頂上に本丸跡があり、石壇の上に七社が祀られている。虎口を入ると、東西約72m南北約27mの本丸跡があり、南と西側に石垣の崩れた土塁が残り、抜穴跡の窪みある。
土塁の西側に馬場跡があり何かの入口と思われる石垣が残り、井戸跡と思える窪地がある。
【歴史】 小田切氏の始祖は佐久郡臼田小田切郷の氏人で、鎌倉時代に地頭となり小市に移り小市今里等に居館を構え、背面に小市城(吉窪城)を築き戦乱に備えたと思われる。
戦国時代、小田切駿河守幸長は、村上義清に属しその後、村上氏と共に上杉方に加わった。
弘治三年(1557年)葛山城を守った頃は、春日・朝日・長嶺・久保寺・平林・布施・横山等組下七騎衆を率いた武将だったが、武田方の火攻めにあい、越後勢の援軍到着寸前に落城し、幸長は戦死した。
永禄四年(1561年)の川中島合戦はこれより4年後の事であるが、戦後武田方の治世になってから、幸長の一子民部少輔は一時武田方より4百貫の知行を受けたこともあったが、衰微流転を重ね末裔は高井郡に移ったと伝わる。『長野市・小田切観光協会』説明板より。