大島城 (おおしまじょう) (台城)(だいじょう)
最寄地 長野県下伊那郡松川町元大島209−2 2014.11.6
大島城 (おおしまじょう) (台城)(だいじょう)
最寄地 長野県下伊那郡松川町元大島209−2 2014.11.6
登城ルート
三の丸空堀
三の丸
土橋
二の丸空堀
二の丸・土塁
本丸空堀
本丸・猿ヶ鼻神社
井戸
大島城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道153号線より東に行った、表記番地の南に台城公園駐車場が用意されている[マップコード143 260 844*70](地図) 。その東に三日月堀と丸馬出がある。
通路をゆくと南に公園となっている三の丸があり、土橋がある。三の丸と二の丸の間に空堀が二条あり、二の丸の西に土塁、櫓台があり、遊具などのある公園となっている。本丸西の空堀の北に井戸が残っている。
本丸は芝生公園となり土塁が残り東端に「猿ヶ鼻神社」「稲荷神社」が祀られ、断崖の下方には天竜川が流れている。松川町指定文化財となっている。
【歴史】 平安時代末期、片桐兵庫助為行の八男・片桐八郎宗綱は片桐郷の南に続く大島郷に分知され、大島氏を名乗り、鎌倉幕府に仕え、大島城・北の城・沼の城を築城したといわれる。
天文二十三年(1554年)武田晴信(信玄)は伊那郡に侵攻し大島城を落し、秋山信友を飯田城に置き伊那谷を統治した。
元亀二年(1571年)、信玄が秋山虎繁(信友)に命じて大改修を施したとされる。
永禄初年頃と推定される年未詳八月十八日武田晴信書状では、虎繁と推定される「秋山善右衛門尉」と室住虎光の在城が確認される。信玄後期~勝頼期の平山城の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。
甲州流築城術の特徴である丸馬出し、三日月堀、枡形虎口などの遺構も良好な状態で残る。天竜川を背に城の側面・背面は台地の断崖となっており、前面の空堀がこの断崖へと続いている。また城正面の三日月堀は2重となっており特徴的である。
主な城将は信玄の弟・武田信廉(のぶかど・逍遥軒信綱)、日向虎頭である。武田氏の伊奈谷南部の拠点であり、遠江・三河・美濃侵攻の兵站基地でもあった。
天正十年(1582年)織田信長が信濃に侵攻すると、国人衆が動揺・戦意を喪失し、城将の武田信廉は戦うことなく甲斐へと退却し大島城は自落した『信長記』。