美濃金山城 (みのかねやまじょう) (兼山城・鳥峰城・鳥ヶ峰城) (国の史跡)
最寄地 岐阜県可児市兼山1444-1 2014.11.23 2017.8.24
美濃金山城 (みのかねやまじょう) (兼山城・鳥峰城・鳥ヶ峰城) (国の史跡)
最寄地 岐阜県可児市兼山1444-1 2014.11.23 2017.8.24
登城ルート(緑線は車道)
大堀切跡の東側道路
出丸南石垣
三の丸門跡
二の丸跡
大手桝形虎口
本丸東石垣
本丸・礎石・城址碑・神社
天守台南西隅石垣
瑞泉寺の移築大手門
美濃金山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 東海環状自動車道の北、木曽川左岸の標高約277mの古城山の山頂に築かれている。兼山小学校(表記番地)北西より北に450m程行くと、道路となっている大堀切がある[マップコード70 447 246*48](地図)。
そこより西に250m行くと、「物見の櫓」がある。南側に下って行くと「蘭丸広場」がある。さらに100m行くと、出丸駐車場に着く。
駐車場に続いた出丸は東西約55m南北約33mで、面積は約1300㎡を有し、北には土塁が築かれ、南には約3~4mの高さに野面積石垣が当時のまま残っている。
駐車場東の道路脇に登り口があり、間もなく三の丸門跡があり門礎石が残っている。その先に「水の手」へ下る道があるが、倒木などのため通行禁止ロープが張られている。
南東に行くと二の丸跡があり、土塁が僅かに残り、二の丸門、侍屋敷、物見櫓などがあったという。二の丸手前を登って行くと、石垣の残る大手桝形がある。大手門は瑞泉寺(犬山市犬山7)に移築されている。
桝形を登ると広い本丸である。さらに登って行くと、天守台南西隅石垣が残り、その上段の約20四方の天守台には建物礎石が多数残り、城趾碑や案内板が建てられ、烏龍神社が祀られている。
神社の裏は「東腰曲輪」で侍屋敷の礎石が残り、天守台石垣がよく確認できる。
【発掘調査】 昭和四十二年(1967年)岐阜県指定史跡に指定され、平成十八年(2006年)可児市が約5年かけて兼山城の発掘調査を行い、当時の茶碗や瓦等の多くの遺物が出土した。
平成二十五年(2013年)10月17日、国の史跡に指定された。
【歴史】 室町時代末の天文六年(1537年)尾張国侵攻のため斎藤道三の命を受け、近辺の十四諸将の協力を得て猶子の斎藤大納言正義が築城し、烏ヶ峰城と名付けられた。
しかし正義は天文十七年(1548年)に近隣の久々利城主・土岐悪五郎頼興に久々利城へ招待された際に、謀殺され城主が一時不在となった。
その後、織田信長が美濃国を領地とした事に伴ない、永禄八年(1565年)に家臣の森三左衛門尉可成(よしなり)が田代城より移り、7万5千石の城主となり兼山城と改称した。
元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで可成が戦死し、その直前に長男の可隆も朝倉攻めの敦賀手筒山城で討ち死にしたため、次男の長可(ながよし)が跡を継ぎ城主となった。
天正十年(1582年)森長可が信濃国川中島に転封されると弟の森成利(蘭丸)が入った。しかし成利は同年、本能寺の変により討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可の領地となった。
天正十二年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、可成の六男・忠政が城主となった。
慶長五年(1600年)に森忠政が川中島藩海津城(松代城)に転封されると、城は犬山城主・石川備前守光吉の領有となり、建物は解体され石川氏の居城である犬山城の改修に使われたといわれる。
忠政はその後慶長八年(1603年)美作国18万6千5百石に国替えされ、津山城主となり城郭を改修した。
兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという伝承があったが、昭和三十六年(1961年)の犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在、否定されている。