掛川城 (かけがわじょう) (懸川城・懸河城・雲霧城・松尾城) (日本100名城42)
所在地 静岡県掛川市掛川1138 2011.9.12 2021.4.17
掛川城 (かけがわじょう) (懸川城・懸河城・雲霧城・松尾城) (日本100名城42)
所在地 静岡県掛川市掛川1138 2011.9.12 2021.4.17
太鼓櫓・四足門・天守
木造復元天守
三日月堀
二の丸御殿
油山寺山門
円満寺の山門
龍雲寺の裏門
掛川城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 掛川城の北西、県道254号線に面して駐車場が用意されている[マップコード83 661 629*73]。
掛川城は逆川北側の高台にあり、本丸に城門(四足門)・築地塀・三重四階櫓天守(木造)が平成六年(1994年)復元された。
三の丸から本丸に移築された太鼓櫓や、文久元年(1861年)に再建された二の丸御殿(国の重要文化財・地図)が現存し、その東に切り立った「黒土塁」がある。また三日月堀、十露盤(そろばん)堀が復元されている。
二の丸東の武家屋敷のあった竹ノ丸は、明治以後は豪商の松本家が購入し、屋敷の建て替えを行った。その後に掛川市の所有となって現在まで残り、明治時代の上流階級の邸宅と小規模な庭園が当時を偲ばせる。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(42番)に選定された。
平成二十一年(2009年)、建物の修復工事が行われ、改修後は有形文化財として一般に公開されている。
大手二の門(国の重要文化財)は油山寺(ゆさんじ・袋井市村松1)の山門として移築現存する。
また「蕗(富貴)の門」が 円満寺(掛川市掛川459)の山門として、どこの門か不明だが龍雲寺(菊川市西方3780)裏門に夫々移築されている。
【歴史】 室町時代中期の文明年間(1469~87年)に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰凞に命じて築城されたと伝えられている。そのまま朝比奈氏が城代を務め、子・孫の泰能、泰朝に引き継がれた。
永禄十一年(1568年)主家の今川氏真(うじざね)が武田、徳川の挟み撃ちに遭い、掛川城へ逃げのびたが、徳川軍に攻められ、翌年氏真と泰朝は開城し、氏真は北条氏を頼って小田原城へ退去し、掛川城には家康の重臣・石川家成・康通が城代となった。
武田氏は諏訪原城を築き、南方の高天神城で徳川家康と攻防を繰り広げた。その後も掛川城は石川氏が城代であったが、天正十八年(1590年)家康が江戸へ移封されると、秀吉の直臣であった山内一豊が入り、掛川城の大幅な拡張を行い近世城郭に整えた。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、山内一豊は土佐一国を与えられ高知城へ移ると、その後譜代大名が入れ替わったが、最終的には太田氏の一族が入った。
安政元年(1854年)東海地震が起こり天守を含む多くの建物が倒壊した。政庁の二の丸御殿は文久元年(1861年)再建されたが、天守は再建されなかった。