北方城 (きたがたじょう)
最寄地 岐阜県本巣郡北方町北方216 2014.11.26
北方城 (きたがたじょう)
最寄地 岐阜県本巣郡北方町北方216 2014.11.26
説明板
大井神社
陣屋北〆切門跡
説明板・系図・城阯碑
系図碑・城阯碑
系図碑
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 大井神社(表記番地)[マップコード28 668 127*02] の南50mより東に60m行った付近に、少し高く10m四方の敷地に「北方城阯」「安東家と北方様」の系図、「北方城跡」説明板が建てられている(地図)。
城跡は大井神社の南東一帯と云われている。また大井神社の南、常誓寺東に「戸田孫七郎家陣屋跡・陣屋北〆切門跡」の碑が建てられている。
大井神社の南東に、竹林の中に北方城跡の石碑が建っている。ここが北方城の本丸跡とされ、当時の城郭は方三町ほどの規模をもっていたという。
この場所は約3900㎡の広さであるが、当時どのような建物があったかはわかっていない。『岐阜県教育委員会』より。
昭和四十三年(1968年)11月11日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 明応年間(1492~1501年)、伊賀太郎衛門光就が築城したという。
4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安東氏を名乗り、安藤守就に改名した。守就は当初土岐頼芸に仕えていたが、美濃が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えた。稲葉良通(一鉄)や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたという。
弘治二年(1556年)、道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えた。
永禄十年(1567年)、織田信長の美濃侵攻に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となった。
しかし天正八年(1580年)、甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、信長によって織田氏から追放され、稲葉良通が北方城城主となった。
天正十年(1582年)、本能寺の変が起こり、信長が家臣の明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし、稲葉良通に攻められ敗北し、北方城は廃城となった。
北方城の跡地には、寛文八年(1668年)に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、旗本5千石の陣屋となり、明治元年(1868年)まで存続した。