苅安賀城 (かりやすかじょう)
所在地 愛知県一宮市大和町苅安賀火口上1580 2014.12.11
苅安賀城 (かりやすかじょう)
所在地 愛知県一宮市大和町苅安賀火口上1580 2014.12.11
苅安賀城址碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 国道155号線より南に行った苅安賀自動車学校(表記番地)の敷地南西の道路に面して「苅安賀城跡」の石碑が建てられ、下段に由来文が刻まれている[マップコード4 723 232*60](地図)。城の形跡は全くない。
碑には「浅井政高城ヲ築キテ・・・」と刻まれている。政高は大阪の陣で豊臣方に加わり自害した田尾茂左衛門であり、誤認か?
【歴史】 永禄四年(1561年)に、近江の浅井氏庶流で織田氏の家臣・浅井政貞(新八郎)により築城された。
『尾張群書系図部集』によると、新八郎は天正九年(1581年)五月二十四日死去した。
その子田宮丸(浅井長時)が後を継ぎ、本能寺の変の際に織田信忠が討死すると、信忠の弟の信雄に仕え、家老の一人となった。
流言により羽柴秀吉に内通したと疑われ、信雄と不和となった。天正十二年(1584年)、信雄から和解の為、同じく信雄と不和になっていた岡田重孝、津川義冬と共に長島城に呼び出され、ここにおいて三家老共に討たれた。
信雄は、長時を討った森久三郎を城主とした。小牧・長久手の戦いでは、信雄・家康軍の城として、秀吉軍に対峙する尾張西部において重要な役割を果たしたと思われる。