福井城 (ふくいじょう) (北ノ庄城)
所在地 福井県福井市大手3‐17‐1 2014.6.15
福井城 (ふくいじょう) (北ノ庄城)
所在地 福井県福井市大手3‐17‐1 2014.6.15
天守縮小模型
南西角石垣・堀
山里虎口・廊下橋
廊下橋
山里虎口の石垣
天守台石垣
福の井
福井城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 本丸跡には福井県庁(表記番地)、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園として整備されている。
本丸跡の、堀と石垣は全周残り、県庁北西の一角に天守台や井戸「福の井」が保存され、廊下橋が山里口に架けられている。
県道5号線横の柴田公園に天守縮小模型があり柴田勝家公像が建てられている [マップコード63 491 741*35]。
本丸御殿の一部が瑞源寺(足羽5‐10‐17)本堂及び書院に移築されている。
【歴史】 朝倉氏の滅亡後、一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正三年(1575年)に自らの縄張りによって築城を開始した。
天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失したが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っている。現在、柴田氏の遺構を見ることは出来ない。
慶長五年(1600年)に家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌年より天下普請による築城を開始した。
慶長九年(1604年)に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成した。完成した城は2㎞四方に及んだ。
慶長十二年(1607年)秀康の子忠直が家督相続し、2代藩主となったが、幕府に対する反抗的態度が見られ、元和九年(1623年)、将軍秀忠は忠直に隠居を命じ、秀康の次男忠昌が3代藩主となった。
忠直はその後豊後府内藩(現在の大分市)へ配流の上、謹慎となった(五月十二日(旧暦))。初めは竹中重次の領内の豊後国萩原という所で5千石を与えられたが、更に人里離れた津森へ移され、その竹中が別件で誅罰されると日根野吉明の預かり人となったという。慶安三年(1650年)に死去、享年56歳。
寛永元年(1624年)に忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福の井」にちなんで「福井」と改名された。
五重の水堀が囲む本丸には四重五階の天守が建てられていたが寛文九年(1669年)に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。以後17代松平家が続き明治維新を迎えた。
17代藩主松平茂昭(もちあき)は、明治二年(1869年)六月、版籍奉還にともない、福井藩知事となった。明治四年(1871年)七月、廃藩置県に伴って免官された。