新城城 (しんしろじょう) (市の史跡)
所在地 愛知県新城市西入船76 2016.4.27
新城城 (しんしろじょう) (市の史跡)
所在地 愛知県新城市西入船76 2016.4.27
新城小学校
土塁・堀
説明板
土塁・城址碑
城址碑
旧東校舎のしろあと資料館
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 新城小学校 (表記番地)のグランド南の土塁上に「新城〃址」の石碑が建てられている[マップコード43 825 332*08] (地図)。
本丸は新城小学校の運動場一帯で、現在、その堀と土塁の一部が残っている。また、横に大正四年建築の東校舎が移築され「しろあと資料館」として 保存されている。
県道439号線「中町」交差点から小学校北の「体育館前」交差点の間の通りは「大手門通り」と呼ばれている。
昭和三十三年(1958年)4月1日、新城市の史跡に指定された。
【歴史】 新城城は、長篠の戦いで戦功のあった奥平信昌によって、天正四年(1576年)に築かれた。
「しんしろ」という市内の地名の由来になった。ここが「新城城(しんしろじょう)」と名付けられたのは、長篠城に対して新城(しんじょう)であったが、すでに天文元年(1532年)に菅沼定継が石田の崖上(幽玄川河口)に築いた城が「新城(しんじょう)」と呼ばれていたため、区別するため「新城城(しんしろじょう)」となったともいわれている。
奥平信昌は天正十八年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、上野国宮崎城(現群馬県富岡市)に移った。その後何人かの城主の交代を経て正保二年(1645年)に廃城となった。
しかし、慶安元年(1648年)に旗本の菅沼定実(野田城主の菅沼定盈が祖父にあたり、桜渕公園に桜の植樹を始めた人物)が陣屋をこの地に構えて以来、明治二年(1869年)の廃藩置県までこの地に住んだ。『新城市教育委員会説明板』より。