三国湊城 (みくにみなとじょう) (湊ノ城・千手寺城)
所在地 福井県坂井市三国町山王2‐5‐40 2014.6.15
三国湊城 (みくにみなとじょう) (湊ノ城・千手寺城)
所在地 福井県坂井市三国町山王2‐5‐40 2014.6.15
妙海寺
妙海寺北西墓地・城址碑
城址碑
由来碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 「妙海寺」(表記番地)の本堂北西にある墓地に「三国湊城址」の石碑が建てられている[マップコード264 123 804*31](地図)。
三国湊に臨む経ヶ岡に建立された千手寺が、南北朝時代に城郭として使用されたもので、東西南北220m四方、大手は西側にあり、堀と塀を巡らせていたと見られる。
『太平記』には、「中にも湊城とて、北陸道七箇国の勢共が終に攻落せざりたり平城也」という記述がある。
【歴史】 南朝方の武将である新田義貞の弟脇屋義助の家臣である畑時能(はたときよし)が居城とした。
北朝方との戦いで義貞が戦死し平野部を制圧されると、時能はこの城を出て鷹巣城に立て籠もり、北朝方の大軍と奮戦の末、戦死した。
その後、千手寺は朝倉氏と関係があったと見られ、明応二年(1493年)甲斐の残党と一向一揆が越前に侵入した際、朝倉方は湊城に拠って防戦したが、永正三年(1506年)の一向一揆により寺坊は全て焼失した。
後、朝倉義景の重臣桜井新左衛門が居城としたが、桜井氏は天正元年(1573年)に織田信長と戦って大敗した義景が大野へ逃れるのに付き従った。