田峯城 (だみねじょう) (蛇頭城) (町の史跡)
最寄地 愛知県北設楽郡設楽町田峯城9 2014.12.9
田峯城 (だみねじょう) (蛇頭城) (町の史跡)
最寄地 愛知県北設楽郡設楽町田峯城9 2014.12.9
登城ルート
空堀と木橋
表曲輪より本丸へ
井戸曲輪
蔵屋敷
畷曲輪
虎口・門
本丸御殿
物見櫓
城址碑
田峯城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 「設楽町役場田峯城」(表記番地)南西約200m地点を左折[マップコード301 484 159*08]、少し登ると駐車場が用意されている(地図)。駐車場に「田峯城」の由来文石碑があり、説明案内板が建てられている。
空堀に木橋が架けられ、その先に柵列が復元されている。表曲輪は一部茶畑となり、右手に「無名曲輪」がある。
上段に「井戸曲輪」「蔵屋敷」「畷(あぜ)曲輪」などの曲輪があり、最高所に柵列をめぐらした本丸があり、搦め手門、厩、御殿、物見台、大手門が復元され、「田嶺城址」の石碑が建てられている。
設楽町指定史跡となっており、御殿など有料で見学できる(大人210円)。
【歴史】 文明二年( 1470年)菅沼定信が築城して本城にし、菅沼一門の総領家・田峯菅沼家の祖となった。菅沼一門は、この田峰から豊川流域への版図を拡げる事に腐心する。
天正三年(1575年)五月二十一日(7月9日)、長篠の戦いで大敗した武田勝頼を伴い、田峰城での慰労を予定していた城主・菅沼定忠(刑部少輔)であったが、留守居の親族・菅沼定直が入城を拒絶した。
僅か数騎の勝頼一行は身柄を拘束されそうになった為、更に北方の武節城まで命からがらの逃避行を強いられ、復讐を誓った。
天正四年(1576年)七月十四日(8月18日)、前年の入城拒絶という辱めを怨んでいた菅沼定忠は、田峰城を早朝に急襲した。老若男女を問わず、城に居た総てを惨殺した。菅沼定直や家老・今泉道善に関しては、生け捕りにした後で鋸挽きの刑で報復している。
天正十年(1582年)御家断絶により廃城となった。