塩田城 (しおだじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県上田市前山300 2014.11.5
塩田城 (しおだじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県上田市前山300 2014.11.5
登城ルート
空堀跡・登山口
城跡碑
枡形石垣
塩田国時之墓
弘法山との分岐(右へ)
砦三の丸
砦二の丸・本丸切岸
砦跡本丸
本丸南の堀切
塩田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【案内・感想】 前山寺(表記番地)の前を西に約100m、そこより南に120m程登った道路角に駐車場(地図)があり「塩田城跡」の石碑、案内板が建てられ、左側の前山寺(ぜんざんじ)に通じる通路が空堀跡である。堀の北半地域(南北230m東西170m)は当時の政庁があったと推定されている。
中央の径を登ると平坦地があり、昭和五十年度から五十二年度にかけて発掘調査が行われ、建物礎石などが確認された。
七ヶ所の帯郭があるとされ、更に登ると「虎ノ口」と呼ばれる桝形石垣があり、古井戸跡が残っている。曲輪も広く谷戸構えの主郭と思われる。
少し登ると分岐に標識があり左に直進すると、約400㎡の曲輪があり、隅に自然石を置かれた「塩田陸奥守国時之墓」がある。
分岐より右に折れ140m程登ると、比高約130mの尾根にある塩田城砦跡に至る。砦跡は北から連郭式の三の丸、二の丸、本丸と並んでおり、夫々標柱が立てられている。二の丸、三の丸は10m四方位で、最高所の本丸は細長く8×30m位の規模である。
分岐より左に登って行くと次第に険しくなり岩場の比高280mの弘法山頂上(地図)に至り、三十三ヶ所観音像が随所に祀られている。
発掘調査の発掘品は城跡近くの観光施設「塩田の館」に展示され、塩田城の復元想像図も展示されている。
昭和四十五年(1970年)4月13日、長野県の史跡に指定された。
【歴史】 建治三年(1277年)に鎌倉幕府の執権補佐の重職であった北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことから始まる。以後、子の北条国時、孫の北条俊時と三代に亘って約六十年間、塩田北条氏の居城となった。
元弘三年(1333年)に鎌倉が新田義貞を中心とする反幕府勢に攻められた際は、塩田北条氏も鎌倉に上り、幕府方として戦うが敗れ、一族とともに滅亡した。
以後、南北朝、室町時代を通して村上氏の領有となり、重臣福沢氏を城主として統治させた。
戦国期の天文二十二年(1553年)四月、甲斐の武田信玄に攻められ落城し、武田氏の手に落ちた。上杉謙信の助力を得た村上義清がこれを奪還し居城とした。
しかし、数ヵ月後には武田勢に包囲され落城し、再び武田氏の勢力下となり、飯富(おぶ)虎昌が城将となった。同年九月に行われた第一次川中島の戦いの際には武田勢の本陣となった。
天正十年(1582年)武田家滅亡後、この地域は真田氏の支配となるが、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり真田氏は没落した。上田城の完成により廃城となったと伝えられている。