長沢西城 (ながさわにしじょう) (長沢城)
最寄地 富山県富山市婦中町長沢5692 2014.10.4 10.24
長沢西城 (ながさわにしじょう) (長沢城)
最寄地 富山県富山市婦中町長沢5692 2014.10.4 10.24
入口にある説明板
登城ルート(赤は西城本丸/青は東城本丸/緑は東城A郭)
長沢西城入口(左へ)・説明板
C郭登り口
C郭
B郭
A郭・井戸・土塁
大手道
長沢西城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内と感想】 各願寺(表記番地)南の細い道を約600m行くと「お池」があり、駐車スペースがある[マップコード 40 253 385*47](地図)。
500mほど行った長沢東城入口よりさらに西へ遊歩道を200m行った入口に案内板がある(地図)。
各曲輪前に現在地を示した案内図が各郭に立てられている。遊歩道入口から150mほど南に行き登った所がC郭で、大手口から最北にあり詰の郭である。空堀を挟んでB郭がある。その南に狼煙台があり標高約130mの最高所となる。
少し下って本丸跡のA郭となり、約99m×44mの広さがあり井戸、土塁が残っている。A郭南に辺呂川方面からの登り道に続く大手虎口があり3m以上の土塁がある。
【歴史】 建武二年(1335年)中先代(なかせんだい)の乱が起き、越中国守護・名越時有の子、名越時兼がこれに呼応して挙兵した。北国勢を引き連れて京を目指したが加賀国大聖寺で敗れた。
長沢氏は井口氏、野尻氏らと共に名越時兼に従っている。同年、松倉城主で越中国守護の普門利清が、足利尊氏に応じて越中国国司の中院定清と敵対し、長沢城で戦った。
長沢氏は井口氏、野尻氏と共に利清に従っている。中院定清は能登国石動山にて敗死した。
観応の擾乱(1349年~52年)が勃発すると、北陸地方では足利一門の斯波高経と桃井直常(布市城主)が覇権を巡り数十年にわたり激しい抗争を繰り広げていたが、応安三年(1370年)には、南朝方の桃井直和(直常の子)が長沢城に籠もった。
越中国守護・斯波義将(高経の子)はこれを攻め、両者は長沢にて戦い直和は討死し、桃井勢は飛騨国へと落ち延びた。
戦国時代には越中国守護代・神保長職の家臣寺嶋職定が在城したという。佐々成政が越中国を統治していた時期に改修が施された可能性がある。
少なくとも、天正十三年(1585年)富山の役によって越中国が平定された後には陣城としての存在価値を失い、廃城となったと思われる。