荒砥城 (あらとじょう) (新砥城)
所在地 長野県千曲市上山田3509‐1 2013.11.23
荒砥城 (あらとじょう) (新砥城)
所在地 長野県千曲市上山田3509‐1 2013.11.23
入口・城跡碑
物見櫓
二の郭櫓門
物見櫓
本郭櫓門
本郭櫓門内側
本郭・兵舎
荒砥城 本郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【感想】 案内所の下に4の郭、途中に3の郭があり、石垣の門や物見櫓のある2の郭、比高約40mの本郭と段々に配置されている。
本郭には石垣門、兵舎、館などが復元され、当時の雰囲気が感じられる。荒砥城跡から、千曲川の流れや向かいの山々の絶景が望める。ロケに使用され、模擬的に造られた構造物が残っている。
【案内】 県道498号線「城山入口」交差点より西に約1.5km登った「千曲市城山史跡公園」(表記番地)として戦国時代の城を再現してある。管理事務所手前に横に駐車場が用意されている[マップコード177 526 111*64]。入場料は有料(大人300円)となっている。
【歴史】 この地の豪族で村上氏一族の山田氏により大永四年(1524年)頃、築城された。
天文二十年(1551年)村上義清の配下の山田国政は武田家臣・真田幸隆の急襲に遭い荒砥城で討死した。
天文二十二年(1553年)四月、武田信玄に攻められ村上義清の葛尾城が落城、義清は塩田城へ逃れ、上杉謙信に援軍を求めた。
同年八月武田氏に従った屋代政国は永禄二年(1559年)荒砥城を与えられ、屋代城より移った。九月一次川中島の合戦後、上杉謙信は屋代政国の荒砥城を攻め落とした。翌年信玄は荒砥城を奪還した。
弘治元年(1555年)七月(二次)、弘治三年(1557年)八月(三次)、永禄四年(1561年)九月の四次の川中島の合戦が行われ、屋代政国は戦死し、屋代秀正が後を継いだ。
永禄七年七月の五次川中島の合戦を経て、元亀四年(1573年)一月村上義清が没し、景国が後を継ぎ、同年四月信玄が没し勝頼が後を継いだ。
また天正六年(1578年)三月謙信が没し景勝が後を継いだ。天正十年(1582年)三月武田勝頼は織田・徳川軍に追い詰められ、自刃し武田氏は滅亡した。
八月景勝は山浦(村上)景国を海津城将に、屋代秀正を副将に任じた。九月に徳川家康は秀正に密書を送る、翌年三月に更級郡安堵を秀正に密約し、天正十二年(1584年)秀正は景勝に背き、海津城を出て、荒砥城に籠るが、上杉軍に攻められ荒砥城は落城した。
その後屋代秀正は徳川家の家臣として働き、北信濃が上杉景勝の領地となり、荒砥城は廃城となった。
荒砥城跡は平成十九年のNHK大河ドラマ「風林火山」の海ノ口城、平成二十三年の「江・姫たちの戦国」の小谷城としてロケに使用された。