青柳城 (あおやぎじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県東筑摩郡筑北村坂北2730 2014.7.15
青柳城 (あおやぎじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県東筑摩郡筑北村坂北2730 2014.7.15
登城ルート(緑は居館跡)
館跡碑
清長寺
青柳氏一族の墓
登り道と帯郭
冠木門・二の郭
二の郭
本丸石垣
本丸・四阿
南東尾根の四の郭
南東尾根の五の郭
五の郭堀切
青柳城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高200m】
【案内】 居館跡とされる青柳氏の墓のある清長寺(表記番地)より東に登ってゆく。一旦林道に出るが、100mほど行くと再び「青柳城址ガイド」の看板のある登り口に着く[マップコード 177 334 150*2 ](地図)。直接車でも行け、路肩に駐車できる。
そこより比高約200mの城山へ大手道を登ってゆく。途中、古道があり、三の丸虎口に出る。冠木門・塀が復元されている。その門を潜ると西に二の丸、一段高く城山山頂(標高905m)に本丸がある。
本丸の北側に小笠原貞慶時代の布目積みの石垣が残り、皇太子殿下御降誕碑(今上天皇)や四阿が建てられ、土塁が残っている。本丸から山間を縫う長野自動車道が望める。
三の丸の南東尾根に堀切・土橋を経て四の郭があり、同じく堀切・土橋を経て五の郭がある。その東に土塁が良く残り、深い二重堀切がある。現在は青柳城址公園として整備され、模擬城門、冠木門、柵などが復元されている。
【歴史】 青柳城はこの地の豪族で、麻績(小見・おみ)氏の一族である青柳氏の城であった。信濃守護の小笠原長時が武田晴信(信玄)に敗れた後、小笠原氏に臣従していた青柳清長は武田氏に従った。
天文二十二年(1553年)の第一次川中島の戦いでは、晴信が一時ここに居城した。また、この合戦では長尾景虎(上杉謙信)は更級郡から筑摩郡へ進出し、青柳城に放火した。
武田氏滅亡後、青柳氏は小笠原貞慶に従ったが、天正十五年(1587年)に青柳頼長は深志城(松本城)で誅殺され、青柳氏は滅亡した。
その後は小笠原氏の家臣の松林氏が在番したが、慶長年間には廃城になった。
清長寺は、天正元年(1573年)、青柳城主青柳頼長が父・清長の菩提を弔うために創建した。 小笠原氏が青柳氏を滅亡させた後、居館跡の現在地に寺を移して整備した。一時青柳小学校が置かれた。
天正八年(1580年)青柳頼長が大切通し、小切通しを切り開き、麻績宿から青柳宿への通行を容易にした。