無動寺城 (むどうじじょう) (光得寺砦)
所在地 岐阜県羽島郡笠松町無動寺221 2014.11.25
無動寺城 (むどうじじょう) (光得寺砦)
所在地 岐阜県羽島郡笠松町無動寺221 2014.11.25
光得寺本堂
古戦場の標柱
鐘楼
無動寺の戦い
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 光得寺境内(表記番地)の南東側に鐘楼があり、横に「無動寺古戦場」の標柱、「無動寺の戦い」の説明板、「鐘と仏像」の説明板が建てられている[マップコード28 441 423*44] (地図)。また梵鐘は、岐阜県の重要文化財に指定されている。
【歴史】 天文十三年(1544年)八月、織田信秀(信長の父)は、越前の朝倉勢7千余人と相呼応して、斎藤道三の稲葉山城を攻める為、5千余の兵で進軍を開始した。
斉藤道三は土岐八郎頼香を大将として尾張国葉栗郡無動寺村(現笠松町)に進軍、安養山光得寺を砦として改修し、無動寺城と名づけた。
織田信秀の軍勢はひそかに無動寺城を取り囲むと、四方から大量の篝火をたいた。不意をつかれた土岐八郎頼香の軍勢は混乱を呈した(松山の合戦)。
それに先立って斎藤道三は、尾張国葉栗郡松原島村(現各務原市)の亘利城の城主、松原源吾に土岐八郎頼香の暗殺を命じていた。
松原源吾は部下十数名と共に、この大混乱を利用して土岐八郎頼香の寝所に乱入した。道三の企みに気づいた土岐八郎頼香はついに自害した。土岐八郎頼香にとって斎藤道三は義父であるが、道三の土岐氏の滅亡という野望の前に消えていった。
城主を失った軍勢は総崩れとなり、無動寺城から次々と在所へ退散し、頼香は寺の横の薮陰に葬られた。
無動寺城は元の安養山光得寺に戻り、わずか一ヶ月足らずで廃城となった。土岐塚は土岐八郎頼香(9代土岐政房の8男、道三の女婿)の墓である。