塔ノ原城 (とうのはらじょう)
所在地 長野県安曇野市明科中川手上手上郷 2019.8.31
塔ノ原城 (とうのはらじょう)
所在地 長野県安曇野市明科中川手上手上郷 2019.8.31
登城ルート
林道より長峰山方面へ
入口の説明板
1条目の堀切
4条目の大堀切
2郭(奥が主郭)
主郭
主郭北側の堀切
北の郭
北2条目の堀切
塔ノ原城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 光城の北方、長峰山から北北西に伸びた標高753mの尾根先端部に築かれている。
放置され草木が多く鬱蒼としているが、堀切の窪地があり、大堀切は見応えがある。2郭と主郭は割と開け、見通しが効く。
北側にも堀切や段郭が残っている。
【案内】 光城山の東を通る舗装林道「城山線」より舗装林道「長峰線」へ入り「天平の森」を過ぎ約2.7km行った地点から、長峰山へ向かう入口がある[マップコード158 352 103*14](地図)。
北の県道302号線より林道「長峰線」を約2.7km南へ行っても、同地点に着く。
東へ約300m歩くと、長峰山遊歩道がありその斜め向かいに「塔ノ原城跡」の説明板が建てられている。
そこから、左に下るとすぐ最初の堀切がある。4番目の大堀切の先が主郭切岸で、右側を回り込んでゆくと2郭がある。南に2m程高く主郭があり南端に櫓台がある。
戻って2郭の北に下ると、北郭があり、その先に堀切、段郭、堀切と続いている。
平成二十年(2008年)10月29日、安曇野市の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代中期、川手郷の地頭となって東信濃から移り住んだ海野氏の一族塔原氏の本城として築かれた。塔原氏の居館は西麓の明科中学校付近とされる。
天文二十二年(1553年)武田信玄に攻められ、城を捨てて逃げた後、信玄の配下となった。
武田氏が滅亡した翌、天正十一年(1583年)稲倉城主赤沢清経は塔之原城主海野氏や小岩嶽城主古厩氏らと結んで上杉氏に通じ、小笠原氏に謀反を企てた。
小笠原貞慶は塔原氏を松本城で誘殺し、居館と塔ノ原城も破却されたと思われる。