北条城 (きたじょうじょう)
最寄地 新潟県柏崎市北条1154 2014.7.20
北条城 (きたじょうじょう)
最寄地 新潟県柏崎市北条1154 2014.7.20
登城ルート(緑線は車道)
連珠塞跡
林道横登り口
馬つなぎ場跡
二の丸跡
大空堀
本丸跡
本丸跡・城址碑
専称寺・移築大手門
晋広寺・移築搦手門
北条城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 専称寺(表記番地)には大手門が移築されている。
専称寺から大手の遊歩道があり、登って行くと「連珠塞跡」があり、駐車場に至る。または南に行った分岐(地図)より北に林道を約1km行くと、同じ駐車場に着く[マップコード187 316 540*53](地図)。
西に登ってゆくとすぐ「木落とし場跡」があり、「三の丸跡」を過ぎると、長さ50m幅5m深さ5mの「馬つなぎ場跡」と呼ばれる空堀がある。
虎口を登ると「二の丸跡」があり、土塁が残っている。その北に長さ40m幅12m深さ8mの「大空堀跡」があり、良く残っている。
その北㟨から登ってゆくと「本丸跡」の細長い曲輪(南北160m東西15m)があり、その北東に「武者溜り」「詰曲輪跡」があり「北條古城趾」の石碑が建てられている。
標高約140m比高(専称寺より)約100mの頂上の本丸からは柏崎市街や日本海が望める。本丸北下に三本の大空堀がある。本丸東に搦め手口があり、下段の径の北に広い二つの曲輪があり、下りてゆくと晋広寺(柏崎市北条782)に通じている。
晋広寺には搦手門が移築され残っている。また北条氏の菩提寺である専称寺(表記番地)には移築された大手門がある。
昭和四十八年(1973年)12月1日、市の史跡に指定されている。
【歴史】 築城時期は不明だが毛利時元によって築城されたとされる。
時元の祖父である毛利季光(すえみつ)は、大江広元の子であるが、宝治元年(1247年)の三浦の乱(宝治合戦)で三浦泰村に味方し敗北を喫し、一族共々滅びる危機に立たされた。
しかし、名族大江氏の末裔であることもあり季光の子の毛利経光が助命され、越後の所領の領有を許された。
経光の子孫の一部は安芸に移り安芸毛利氏となるが、越後に残った毛利基親の一族もおり、時元は基親の子である。
時元の子の毛利経高の代に越後毛利氏は分裂し、越後北条(きたじょう)氏、安田氏に分かれた。
以降、北条城は代々越後北条氏の当主が城主となった。戦国時代の城主は北条高広となっていた。
高広は長尾景虎(上杉謙信)に仕えたが、天文二十三年(1554年)に武田晴信と内通して北条城を拠点として景虎に謀反を起こすが、天文二十四年(1555年)に景虎側に北条城を包囲され落城し、高広は許しを請い景虎にまた仕えた。
高広は後に上野国厩橋城の城主となるが、北条の所領は引き続き領していた。天正六年(1578年)の御館の乱(上杉家の家督争い)で高広は子北条景広と共に上杉景虎に味方し、越後国で上杉景勝軍と奮戦するが、子・景広は戦死し、北条城もまた落城した。その後、高広は武田勝頼に仕え、滝川一益にも仕えたと云われる。