放生津城 (ほうじょうづじょう)
所在地 富山県射水市中新湊23−10 2014.10.5
放生津城 (ほうじょうづじょう)
所在地 富山県射水市中新湊23−10 2014.10.5
説明板
放生津小学校
公園・城址碑・説明板
グランド・砂止め土盛り
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 放生津小学校(表記番地)のグランド北側の公園に、「城址」の石碑があり説明板が建てられている[マップコード40 671 784*01](地図)。
現在、遺構は射水市立放生津小学校グラウンド地下2mの位置にあり、地表から見えない。
江戸時代の記録によると、城は本丸、二の丸からなり、本丸は南北約126m東西約81m、二の丸は南北約50m東西約36mの広さであった。
【発掘調査】 昭和六十三年(1988年)、平成元年(89年)、平成三年(91年)の三度にわたり試掘調査が行われ、南北朝~戦国時代の遺構や青磁・白磁・土師器皿・珠洲焼・越前焼・漆器椀・中国銭などが出土し、出土品の一部が射水市新湊博物館で常設展示している。遺構は試掘後に埋められた。
グラウンド周囲に有る土盛りは砂止めであり、土塁遺構ではない。
【歴史】 鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中守護所が始まりである。
南北朝時代の軍記物語『太平記』には、元弘三年(1333年)鎌倉幕府滅亡に際し、越中国守護名越時有が一族とともに放生津城で最期を遂げたと記している。
室町時代になると、守護畠山氏に代わり射水郡・婦負郡守護代神保氏が入城した。明応二年(1493年)明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠(じんぼうながのぶ)は、政変で幽閉された十代将軍足利義材(よしき・義伊・義稙)を迎え、上洛のための諸準備を進めた。
義材は放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙した。義材のもとへ公家、大名が出仕し、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れた。放生津は北陸の政治・経済・文化の中心として栄えた。
永正十七年(1520年)神保長誠の子慶宗が越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)の攻撃で落城し自害した。このため神保氏は拠点を富山城に移した。その後神保氏により再建され、加賀前田氏の武将が城代となったが、江戸時代初期に廃城となった。城跡は畑とされ、江戸後期に加賀藩前田家の米倉が設けられた。