御館 (おたて)
所在地 新潟県上越市五智1‐22 2014.10.23
御館 (おたて)
所在地 新潟県上越市五智1‐22 2014.10.23
説明板
御館公園
石碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内と感想】 「御館公園」(表記番地)となっており遺構はないが、公園北側の入口付近に案内板と石碑が建てられている[マップコード126 583 679*68] (地図)。
主郭は現在の公園の6倍の東西120m・南北150mの規模であり、周囲を堀で囲んでいた。
その北にⅡ郭、Ⅲ郭、Ⅳ郭、Ⅴ郭の小郭が堀の中にあり、それらを含めると東西250m・南北300mの広さがあった。
御館跡の発掘調査では、鉛や青銅製の銃弾の他、武具や刀剣等が出土した。
【歴史】 天文二十一年(1552年)小田原城主北条氏康に敗れ上野国平井城より越後に逃れた関東管領上杉憲政のために上杉謙信が造営した館で、後に憲政から関東管領を継いだ謙信が政庁として使用した。
天正六年謙信の死去により、二人の養子景勝と景虎の跡目争いの「御館の乱」が起きた。景勝は軍事拠点の春日山城を、一方景虎は政治拠点の御館を占拠し戦った。
天正七年(1579年)三月景虎の立て籠る御館は景勝軍の総攻撃を受け落城し、景虎は鮫ヶ尾城に逃がれ、追討軍に敗れ自害した。
この時、至徳寺などの名刹や府中の民家六千軒が焼失したと伝えられる。またこの戦乱で目覚ましい働きをしたのが景勝の重臣・樋口与六(後の直江兼続)で、この戦功により奉行に取り立てられ、上杉家の中で重要な地位を占めるようになった。