牛久保城 (うしくぼじょう)
最寄地 愛知県豊川市牛久保町城跡36 2014.12.8
牛久保城 (うしくぼじょう)
最寄地 愛知県豊川市牛久保町城跡36 2014.12.8
城趾碑・祠
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 JR飯田線牛久保駅の東側踏切と「渡辺マタニティークリニック」(表記番地)の間に忠魂碑のある芝生広場があり、「牛久保城趾」の石碑が建てられ、祠が祀られている[マップコード43 481 609*28](地図)。
吉田城の北4㎞に位置し、二重の水堀を備えた平城であったが、現在、JR飯田線牛久保駅や住宅地となっており、遺構が全く滅失している。
ただし城跡周辺には城跡・城下・大手などの小字が残り、過去の発掘調査の結果、堀の遺構が確認されているという。
【歴史】 三河国聞書『三河国ニ葉松』によると、牧野出羽守保成が築城した。
天正十八年(1590年)に牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国勢多郡大胡(大胡城)に2万石を領して移動した。
牛久保城は吉田城に入った池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久(平左衛門)が城主となった。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、牛久保周辺は天領となり、城郭の一部が代官所になるなどして機能していたが、元禄十三年(1700年)に廃城となった。