箕輪城 (みのわじょう)
所在地 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪12680 2014.11.6
箕輪城 (みのわじょう)
所在地 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪12680 2014.11.6
養泰寺西側・城跡標識
説明板
腰郭
主郭
土塁・西側空堀
主郭土塁
南側空堀
主郭切岸・養泰寺庭園
箕輪城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 養泰寺(表記番地)西の高台が城跡であり、標識と案内板が建てられている。
主郭、腰郭跡は墓地となっているが、コの字型に土塁が残り東は切岸となり、一段下がって養泰寺本堂がある。南側に空堀がよく残っており、その南に曲輪が認められる。道路は北側空堀と思われる。
昭和五十二年(1977年)5月9日箕輪町指定史跡となった。
【歴史】 室町時代に箕輪氏の居城として築かれた。箕輪氏は木曽氏の末流高遠太郎義信を祖とし、その嫡男箕輪左衛門尉義雄が文安二年(1445年)卒と伝えられているから室町時代初期と考えられる。
天文年間(1532~55年)の初めころには福与城の支城としての役割を果たしていた。(福与城のことを箕輪城と呼ぶ場合もある)。木下総蔵、福与城主藤沢頼親の養子左衛門尉重時が城主であった。
天文十四年(1545年)武田信玄の伊奈攻略により藤沢頼親は、伊奈の地を追われたが、天正十年(1582年)武田氏滅亡後、福与城に拠り旧領を回復しようとしたが、保科正直に攻められ滅亡したため、箕輪城も廃城になったと云われている。