柿本城 (かきもとじょう)
最寄地 愛知県新城市下吉田田中106-1 2018.10.19
柿本城 (かきもとじょう)
最寄地 愛知県新城市下吉田田中106-1 2018.10.19
説明板
登城ルート
満光寺
曲輪・本丸切岸
空堀
本丸・模擬柵
本丸・城址碑
二の丸
出丸
柿本城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 新城市下吉田の標高191mの丘陵先端部に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、出丸から構成されている。
新東名高速道路が東側を通り、堀切などの防御施設は意外と少なかった。
【案内】 国道257号線に面した道の駅「鳳来三河三石」(表記番地)に駐車でき[マップコード43 838 807*16] 、満光寺境内の西側から遊歩道が整備されている。10分位登ると本丸の模擬柵前に出る。
本丸は東西約55m南北約90mの広さで模擬柵が巡らされ、「鈴木長門守重勝之城址」の石碑が建てられている。
【歴史】 柿本城は、井伊家の被官であった鈴木長門守重勝が、三河遠江国境の備えのため、永禄十一年(1568年)徳川家康の命により築城が開始された。
重勝の嫡子三郎太夫重時(山吉田)と菅沼次郎右衛門忠久(都田)、近藤石見守康用(宇利城)は井伊家に仕え井伊谷三人衆と呼ばれた。永禄十一年(1568年)家康の遠江侵攻の際、道案内役を務めた後、柿本城を築城し、井伊谷と山吉田を共同で守るよう家康から命を受けた。
元亀三年(1572年)10月、家康との盟約が敗れた武田信玄は、2万5千の兵を率いて遠江攻略に出陣、山県昌景の5千の兵は、井伊谷方面に出るため、作手の奥平、田峯の菅沼、長篠の菅沼の道案内で5百ばかりの柿本城に押し寄せた。
15歳の城主鈴木平兵衛重好(重時の嫡子)は、満光寺玄賀和尚らの仲介で和議を結んで開城し、伊平小屋山砦に逃れた。
その後、重好は親譲りの剛勇と智謀を兼ね備えていて、徳川四天王の一人17代井伊直政に仕え、関ヶ原の戦いに戦功を挙げた。
元和四年(1618年)水戸藩初代徳川頼房の附家老となった。子孫は水戸城代家老あるいは執政等の要職に就き1万石以上の格式を与えられた。