一乗谷城 (いちじょうだにじょう) (一乗谷朝倉氏遺跡) (国の特別史跡・日本100名城37)
最寄地 福井県福井市城戸ノ内町7-1 2013.6.10 2014.11.8
一乗谷城 (いちじょうだにじょう) (一乗谷朝倉氏遺跡) (国の特別史跡・日本100名城37)
最寄地 福井県福井市城戸ノ内町7-1 2013.6.10 2014.11.8
登城ルート
復元町家
居館跡・唐門
朝倉氏館跡・堀
朝倉氏居館跡
小見放城
千畳敷跡
一の丸虎口
一の丸
堀切
二の丸
三の丸北堀切
三の丸・案内板
一乗谷城 三の丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高420m】
【案内・感想】 県道18号線を挟んで西に武家屋敷・町屋があり東に居館跡のある「一乗谷朝倉氏遺跡」がある。
(社)朝倉氏遺跡保存協会「復原町並」(福井市城戸ノ内町28−37)駐車場が用意されており[マップコード63 290 255*38] (地図)、有料(大人210円)で見学できる。町屋が再現され、武家屋敷跡、井戸、石垣などが残っている。
北に2㎞ほど行くと県道31号線と九頭竜川の間、「県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館」(福井市安波賀町4−10)がある。
「一乗谷朝倉氏遺跡」には発掘された「大規模武家屋敷群」の礎石、溝などが保存され、侍屋敷や街道に並ぶ職人、商人の町家が再現復元されて往事の城下の雰囲気を味わうことが出来る。
県道18号線を挟んで東に一乗谷川の木橋(おやかたばし)が復元され、水堀で三方を囲まれた唐門のある朝倉氏館跡庭園が遺る。
土塁、石塁、水堀、建物礎石が保存され、南に井戸や「義景公墓所」がある。北に南陽寺跡庭園、南に湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園があり、山に向かう道の石塁が残り、中の御殿跡や英林塚(初代孝景公墓所)がある。その横から山城へ登る登山道が二の丸南に繋がっていたが、平成十六年福井豪雨のため通行不能となっており、再開の見通しは無い。
山城へは、八幡神社(表記番地)前に駐車(地図)、約1500m(約1時間)の馬出ルート登山道を登る。100mほど行ったところが馬出地区で、曲輪の平坦部が見られる。
砂防ダムの上に「小見放城」がある。比高約420mの山頂近くに「不動清水」があり、不動像の足元から湧水が出ている。
その30m上に千畳敷跡と呼ばれる本丸曲輪(義景の時削平され本丸となったと云われる)があり、横に土塁で隔てて観音屋敷跡や宿直(とのい)跡がある。宿直跡からは眼下に一乗谷、遠く槙山城跡や福井市街が望める。
その上段が一の丸跡で南東へ尾根伝いに二の丸跡、標高473mの最高所に三の丸跡があり堀切で区切られている。竪堀、堀切、土塁も良く保存されている。
昭和五年(1930年)7月8日 地上に出ていた庭園が国の名勝に指定された。
昭和四十六年(1971年)7月29日、山城跡を含めた約278haが国の特別史跡に指定された。平成三年(1991年)5月28日 諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園が国の特別名勝の指定を受けた。
【歴史】 文明三年(1471年)初代朝倉敏景(孝景・教景)は黒丸館(福井市黒丸町)より本拠を一乗谷に移した。
文明年間には重臣も移り住み、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから、応仁の乱で荒廃した京より高僧、文人、学者などが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し北の京とも呼ばれ、戦国四代朝倉景孝の頃から人口1万人を超え、越前の中心として栄えた。
天正元年(1573年)八月、戦国五代朝倉義景は織田信長との戦い(刀禰坂の戦い)に敗れ、大野へ逃げ、その8日後自害した。信長勢により火をつけられ一乗谷は灰燼に帰した。朝倉氏一族は信長の命を受けた丹羽長秀により殺害されて、滅亡した。
戦後、朝倉氏旧臣の桂田長俊が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。同じ旧臣の富田長繁などの反感で天正三年一揆をおこさせ3万3千の軍勢で攻め入り桂田長俊一族もろとも討取られた。
この一揆を信長の命により平定した柴田勝家は信長に越前八郡を与えられたが、本拠を水運、陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境の一乗谷は放置され、落葉の下に埋もれていった。