鳥屋城 (とやじょう) (烏帽子城)
所在地 長野県上田市武石鳥屋/腰越/東内 2020.8.8
鳥屋城 (とやじょう) (烏帽子城)
所在地 長野県上田市武石鳥屋/腰越/東内 2020.8.8
登城ルート(緑線は車道)
駐車場(奥にフエンス扉)
西尾根の堀切・標識
2郭
主郭・案内板
北側1番目の堀切
北側3番目の堀切・北の郭
北の郭北の堀切
南の郭(奥が2郭切岸)
南の堀切
鳥屋城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高180m(駐車場より)】
【感想】 依田川左岸の丸子城の南西尾根続きの、標高850.6mの山頂に築かれている。中間には根羽城がある。
北と西、南の三方の尾根に堀切が見られ、特に北側の4条の堀切は深く、草木も少なく見映えがする。
南尾根の山頂に小郭があり、その南に岩場を利用した浅い堀切が残っている。
【案内】 県道62号線より市道を西へ約250m行くと右側民家に案内標識があり、右折し北に約60m行ったところに説明板が建てられている[マップコード468 779 373*71](地図)。
さらに北に350mほど行くと林道右に駐車場が用意されている[マップコード468 779 764*73]。
少し先にフエンス扉があり、「鳥屋城跡あと630m」の標識が立てられている。林道を2か所折り返して上ってゆくと、尾根の堀切に着き、右に登ってゆくと岩場、段郭を経て城跡に着く。道は広く途中に標識が立てられ迷うことなく城跡に登ることができる。
主郭は20mほどの平坦地で、南側土塁上に三角点が設けられている。
主郭の北から西、南にかけて帯状の2郭があり、北尾根に3条の堀切を挟んで、北の郭がある。北の郭の南に土塁が見られ、北尾根に堀切が残っている。
一方、2郭の南に5mほど下がって、南の郭がある。南尾根に堀切があり、下ってゆくと堀切、急斜面の小郭がある。さらにその南に岩場を利用した2条の堀切があり尾根の南端は崖になっている。
【歴史】 築城年代や築城者は不明である。武田信玄は小県地方から北信地方進出を狙って、天文十二年(1543年)鳥屋城の南約4.5kmにある長窪城を攻め落とし、有力な根拠地とした。
天文二十二年(1553年)四月、武田氏が埴科郡に侵攻すると、村上義清は本拠地葛尾城を捨てて、上杉謙信を頼り、その援助で領地を回復し塩田城に入り再興を図ろうとした。しかし、信玄は直ちにこれを攻略するため七月二十五日に甲府を出発した。
信玄の家臣駒井高白斎の軍記『高白斎記』には次のように記されている。
信玄は八月一日、長窪城に着陣、和田城を攻め、城主以下ことごとく打ち取った。三日、鳥屋城へ登り見物(実際に登ったのは鳥屋山砦と思われる)。四日、鳥屋城の衆ことごとく打ち取られたという。内村の館を攻め落とし、申刻(16時ごろ)勝利した。五日、塩田城を攻撃、回りの城は戦わずして塩田城は陥落、塩田城に武田の軍旗を立てた。
鳥屋城は天文年中、村上方の武田氏に対する最前線の城として使用されていたことがわかる。