中嶋砦 (なかしまとりで)
所在地 愛知県名古屋市緑区鳴海町下中13 2017.2.26
中嶋砦 (なかしまとりで)
所在地 愛知県名古屋市緑区鳴海町下中13 2017.2.26
砦跡看板
中島城址碑
中嶋砦跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 鳴海城跡の南南東約600mに位置している。扇川と手越川の合流する一帯の低地で、宅地化され面影はない。立派な城址碑が個人宅に建てられ、フエンス扉より自由に入ることが出来る。
【案内】 手越川に架かる「下中橋」より東側の細い道を約50m南に行くと、フエンスに看板が設置されている[マップコード17 849 774*01]。
個人宅の庭に昭和二年(1927年)鳴海町により建立された「中島城址」の石碑がある。
南東約2.9kmに今川義元本陣跡「おけはざま山」[マップコード17 792 181*13](地図)がある。
【歴史】 織田信秀の死後、子の信長から離反し今川方についた鳴海城主・山口教継、教吉親子が、永禄二年(1559年)の切腹により、鳴海城は南の大高城とともに今川義元の猛将岡部元信が守った。
織田信長はこれに対抗すべく、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築いた。 中嶋砦は守将として梶川高秀が置かれた。
永禄三年年五月十九日(西暦1560年6月12日)、今川義元が尾張に侵攻して来ると、信長は清洲城を出陣するが、鷲津・丸根両砦は落とされてしまった。
信長はまず丹下砦へ入り、次に善照寺砦へ移った。そのとき義元は「おけはざま山」で休息しており、信長がさらに中嶋砦に移ろうとしたところ、脇は深田で一騎ずつしか通れない道で、敵から丸見えなため家老衆が止めたが、信長は振り切って中嶋砦に移った。
その時点で信長軍は2千人足らずで、家老衆が止めるのを聞かず、敵方は戦闘で疲れていると判断した信長は今川義元本隊に突撃し、ついに義元を敗死させた(桶狭間の戦い)。
その結果、今川軍は尾張から撤退し、中嶋砦も役割を終えた。