長野城 (ながのじょう) (国の史跡)
最寄地 三重県津市美里町桂畑354 2016.4.2
長野城 (ながのじょう) (国の史跡)
最寄地 三重県津市美里町桂畑354 2016.4.2
登城ルート(緑線は車道)
林道入口
駐車場先・堀切
西郭・主郭切岸
帯郭
主郭・土塁
主郭・土塁
城跡碑・説明板
説明板
長野城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 表記番地西の道を北に桂畑川に沿って約2km行き、鋭角に曲がった林道を2.2km登り詰めると駐車スペースがある。
東に200mほど登ると堀切があり、西郭を経て虎口を登ると主郭で、標高540mの山頂に位置し、土塁が残っている。
東側下段に帯郭があり、「長野氏城跡」の石碑、説明板が建てられている。
昭和五十七年(1982年)1月16日、細野城の「東の城」「中の城」「西の城」跡とともに「長野氏城跡」として、国の史跡に指定された。
【歴史】 長野氏は、南北朝時代から室町時代の頃、美里町の長野を本拠にして、旧安濃郡と奄芸郡を支配した国人領主であった。
文永十一年(1274年)工藤祐藤によって築城され、長野工藤氏の拠点とした。
貞和二年(1346年)に南朝方の北畠氏に攻められて落城したが、文和元年(1352年)に再び工藤氏が入った。
延文五年(1360年)幕府に叛いた仁木義長が、京都から長野城に逃げ籠るが、要害堅固の為、寄せ手が近寄れず、2年以上の籠城戦となったという。
永禄十二年(1569年)に織田信長が侵攻すると、弟の織田信包(のぶかね)を工藤氏の養子として和睦した。
信包は元亀元年(1570年)に上野城(地図) を居城とし、長野城は廃城となった。『ウィキぺディア』より。