丸子城 (まりこじょう) (三角城・宇津谷城・鞠子城)
最寄地 静岡県静岡市駿河区丸子5665 2014.6.13
丸子城 (まりこじょう) (三角城・宇津谷城・鞠子城)
最寄地 静岡県静岡市駿河区丸子5665 2014.6.13
縄張り図
登城ルート
登り口
馬出曲輪
本曲輪・土塁
桝形虎口
本曲輪東堀切
二の曲輪
堀切
北曲輪・土塁
丸子城 本曲輪跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 誓願寺(表記番地)駐車場が利用できる[マップコード25 399 350*84]。
そこより橋を渡った所に丸子城跡看板がある。東50mの「静風苑」駐車場の北の細い道を行くと、登り口がある(地図)。
階段を登り北に尾根伝いに登る。誓願寺のある大鈩(おおだたら)口から行程800m余の「丸子の里自然歩道」のルートとなっており、約400mで馬出曲輪・本曲輪・二の曲輪・三の曲輪の南城(三角城)、北曲輪・大手曲輪の北城(宇津谷城)を経て東山麓の泉ヶ谷口(駿府匠宿・おもしろ体験館横)に通じている(地図)。
標高139.8m・比高約100mの山頂に土塁の残る馬出曲輪・喰違い虎口・本曲輪があり東に桝形虎口・平虎口、堀切、二の曲輪、堀切、三の曲輪、堀切、北曲輪、竪堀、大手曲輪、三日月堀、土塁とルート上に並んでいる。三角城(みかどじょう)の別名がある。
【歴史】 北城は応永年間(1394~1428年)、駿河国守護今川氏の家臣、斎藤安元により歴代の居城として築城され、北城の北側山麓には斎藤氏の居館が設けられていたと見られている。
今川義忠が、文明八年(1476年)に戦死し、龍王丸(後の今川氏親)と、小鹿範満との間で家督争いが起きた際、龍王丸は一時丸子城で暮らしていた。家督相続した氏親が西進を目指すに当たり、駿河府中の防御を固めるため斎藤氏の居城を接収して、南の三角山方面に城域を拡大したのが南城であるが、氏親以降氏真までの城主や歴史は不明である。
永禄十一年(1568年)、武田信玄が駿河に侵攻すると、西駿河に残る今川方への押さえとして山県昌景が丸子城に置かれた。
永禄十三年(1570年)、信玄は駿河全域を制圧して、丸子城は諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番とし、天正六年(1578年)頃には屋代勝永に替えた。この間、西方面の大規模な増築や各所の改修が行われた。
天正九年(1581年)三月の高天神城の落城を前に、武田方は徳川方に丸子城を明け渡して退去し、徳川家康は松平備後守を置いたが、天正十八年(1590年)の関東移封に伴い廃城となった。